21世紀活字文化プロジェクト

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イベント情報

2002/11/26

第1回活字文化推進フォーラム

 活字文化の発展に向けて、いま何が可能なのか――。読売新聞社と出版業界などで作る活字文化推進会議は今月11日、第1回「活字文化推進フォーラム」を東京・有楽町のよみうりホールで開き、本格的な活動に入った。同会議が進める「21世紀活字文化プロジェクト」は、これを手始めに2004年末まで、全国各地で計8回のフォーラムや、市民講座など様々な活動を予定している。第1回フォーラムの内容と併せ、各界で活躍する人々の「私の一冊」を紹介する。

基調講演「情報社会と活字文化」

山崎正和氏(劇作家、東亜大学学長)

 最近、若いタレントが雑談の花を咲かせる夜のテレビ番組などでは、会話がテロップで表示されるようになった。若者言葉が粗雑になって、若い視聴者にも聞き取りにくくなっているのではないか。本を読む人が減ったと言われるが、書き言葉が疎んじられる世の中では、次第に話し言葉も通じなくなるという兆候かもしれない。

 私たちが広い範囲の人々に意味を伝えようとする時には、心の中で書き言葉を思い浮かべながら話している。活字文化が衰えるとすれば、それは話し言葉を含めた、人間の言語的な情報伝達そのものが、危うくなるとも言える。

 「活字文化」とは、大多数の人々が階層や生活環境を超えて共通の言葉を持つことで、それを助ける極めて大きな手段が「活字」という媒体だ。活字が生まれる前、書き言葉は僧侶や学者など、ごく一部の特権階級のものだった。そういう時代にはまた、聖典や古典のかたちで、統一された知識の体系が定められていて、書き言葉はそれだけを伝えていた。一方、日々の新しい情報は人々が話し言葉で口から耳へ伝えていたため、情報の範囲は非常に狭かった。

 15世紀ごろ、グーテンベルクが活字印刷を発明し、初めて書き言葉が標準化された。当時活字になったのは、キリスト教を中心とする古典的教養だけだったが、次第に新しい情報が活字になるようになり、17世紀にはヨーロッパ各国で新聞が誕生する。新しい情報や政治的意見を、広く多くの人が知るようになり、18世紀には小説が普及した。

 しかし、何といっても大きな転換は、19世紀から20世紀にかけて起こった情報化であり、大衆化である。19世紀末ごろからアメリカで新聞の発行部数が飛躍的に増えた。単行本も大量廉価出版が始まり、イギリスでは、1848年に旅行者向け文庫本(鉄道文庫)が刊行された。

 また、20世紀に入っての革命的な変化は、文字によらない情報の伝達が飛躍的に拡大したことだ。カメラの普及によりグラフ雑誌が生まれ、ラジオ、映画が生まれた。20世紀後半にはテレビが、さらにパソコンが普及して、独特の画像、音声の伝達方法が生まれた。今、私たちが活字文化にある種の危機を感じているというのは、それを上回る勢いで音声、画像、映像のメディアがはんらんしているからなのだ。

体系的知識への関心低下

 情報化の一つの弊害は、断片的で流動的な情報に人々の関心が移って、体系的な知識への関心が衰えたということだ。いいかえれば、意味への関心が失われた。意味というのはまとめであり、いろいろな現象を一つの視点から見渡せるようにする。同種の情報をまとめて、違ったものと比較するということだ。映像や画像は決してまとめることはできないが、言葉はその意味の作用によって、非常に多くの情報を圧縮して、知識に変えることができる。その言葉を支えているのが活字なのだ。また、情報のはんらんは、人間を受け身の立場に置き、せつな的な反応に駆り立てる。活字文化はそれにブレーキをかけて、世界について主体的に考えさせる。

 昔、知識を持ち、世界を知る権利は、ごく一部の人のものだった。今、私たちは、世界を皆で知って、皆で動かしていこうと約束した。私たちが一定の知識を持って、共通の言葉で話し合うことが、権利であると同時に、義務になった。だから今、もし活字文化が衰退を始め、人々が単なる情報におぼれて、主体的に考えることをやめれば、それは民主主義に対する義務を怠っていると言っても過言ではない。

 我々に何ができるか。活字文化推進会議では、きょうを一つの出発点として、皆さんと一緒に考えていきたい。

山崎正和(やまざき・まさかず)
劇作家、東亜大学学長。 1934年、京都市生まれ。ダニエル・ベル氏らと共に、知識の国際化をめざす国際知的交流委員会委員なども務める。著書に「柔らかい個人主義の誕生」など。
「今なぜ活字文化なのか」をテーマに、今月11日に開かれた第一回「活字文化推進フォーラム」は、1100人の聴衆が見守る中、活発な討議が行われ「活字文化の衰退」に警鐘を鳴らした。

「読まぬ時代」に警鐘/本に手伸ばす環境大切…パネルディスカッション

■パネリスト

mutsuro_kai.jpg甲斐睦朗(かい・むつろう)
国立国語研究所長。1939年、台湾生まれ。文化審議会国語分科会委員。青少年の国語教育にも力を注ぐ。著書に「源氏物語の文章と表現」など。
mariko_hayashi.jpg林真理子(はやし・まりこ)
作家。1954年、山梨県生まれ。86年、「最終便に間に合えば」「京都まで」で直木賞受賞。2000年より、直木賞選考委員。
yoshiharu_fukuhara.jpg福原義春(ふくはら・よしはる)
資生堂名誉会長。1931年、東京都生まれ。東京商工会議所副会頭、企業メセナ協議会会長兼理事長も務める。著書に「生きることは学ぶこと」など。
takeshi_yoro.jpg養老孟司(ようろう・たけし)
北里大学教授。1937年、神奈川県生まれ。東大名誉教授。専門の解剖学の視点から、広く文明を論じる。著書に「唯脳論」「本が虫」など。

コーディネーター

橋本五郎さん(本紙編集委員)


【橋本】 活字文化はなぜ大切なのか。活字文化という時、何をまず思い浮かべられるか。体験を交えお話を。

【養老】 子供時代から虫好きで本好き。「本ばかり読んでどうするの」「虫ばかり捕ってどうするの」とよく言われた。昔は、本ばかり読むのは必ずしも良くないとの常識があった。活字文化について衰えた面は確かにあるが、本の冊数や読む人の数は昔より多いのではないか。

【福原】 子供の頃(ころ)はテレビもなかったし、近所にも同じ年頃の遊び友達もいなかった。だから、多くの時間を本を読んで過ごした。子供は命令されてもだめだが、家にたくさん本があれば、両親に隠れて読書するもの。私も父の本棚から本を取り出し、「鞍馬天狗」には正義感、「ロビンソン・クルーソー」には個人と社会の関係を学んだ。「スポーツもしないで本ばかり読んで」とよく言われたが、頭や心のためには本を読まなければダメだと思う。「言葉は力なり」と言った人がいるが、文字は魔術であると思う。

【林】 本屋に生まれ、常に本に囲まれていた。読書のきっかけは、性的な目覚めと密接だった。隠れて読んだ「オール読物」の挿絵に、もやもやを感じたり。若い人が読書しないのは、予行演習に本を読まず、すぐ直接的行動に走ってしまうせいかもしれない。本を読んだから人格者になるわけではない。でも、1人でしていても惨めでない唯一のことは読書。それができるかどうかで人生に差がでてくる。

 先日読んだ村上春樹さんの「海辺のカフカ」に素晴らしい一節があった。「音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う?」と問われた登場人物が「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそこにあるすべての目盛りが1段階上に上がっていることを知ります」と答える。この「音楽」は「読書」に置き換えて読めるし、人が教養を持つことの意味を見事に表現している。

【甲斐】 ある外来語辞典の増補版で調べたら、1年あたり500語ずつ外来語が増えている。漢字は視覚的に意味が分かるが、カタカナ語は一つ一つ意味を覚えないといけない。増え続けるカタカナ語も活字文化の問題としてあるのではないか。

【橋本】 読書をすると頭が活性化するという研究がある。

【養老】 その証明は難しいが、読書の際、広く頭を使うことは経験的に知られている。その根本的理由は言葉が非常に抽象化されたものであること。ヒトの脳が抽象能力を持つから、目から入った文字を耳から入った音声言語と同じ言葉として理解できる。歴史的には最初に音声言語が、最終的に文字が出てきたが、その両方を使えることは、近代の人間を一番特徴づけている。おしゃべりをして読むことがないのは言葉の使い方としては不十分だと思う。

【橋本】 自分の人生に影響を与えた1冊をあげるとすれば何か。

【甲斐】 若いときから文章の美しさに憧(あこが)れてきた「源氏物語」を推したい。「源氏」の亜流の作品も読むが、だんだん文章の汚さが気になり、「源氏」に戻ってしまう。一巻だけでもいいから、日本人なら生涯に1度は原文で読んでほしい。

【林】 中学2年生のとき「風と共に去りぬ」を徹夜で読んで、物語の世界に魅せられた。平凡な生活でなく私には別のきらびやかな人生が待っているのでないかと。あの本が作家になった決め手。その後、映画を見たときも、本と映画の相乗作用でわんわん泣いて、「こんなつまらない世界に生きているなら、いっそ死んでしまいたい」と思ったほど。読書は青少年にとって、毒も含んでいる。

【福原】 僕の一種の原点になっているのは小学生のとき読んだ福沢諭吉の自伝。形ばかりの権威にとらわれず実体を見よ、というあたりで引き込まれた。

【養老】 1冊には絞れないが、疎開していたときおばに渡されたのが「ギリシャ・ローマ神話」。祖父に見つかると取り上げられると言われたため、一生懸命読んでしまったが、これは「上手な読書の薦め」だった。次に読み出したのは「むっつり右門捕物帳」。私はいまだに毎日推理小説を読むのだが、これでくせがついたのだろう。

【橋本】 みなさんは多彩な読書体験をお持ちだが、活字文化の現状は憂うべき状況のようだ。(グラフ参照)

【甲斐】 「朝の読書運動」を実施する小中高校は1万校を突破したが、現場の教師から「図書館の本が不足している。生徒たちは自宅から『釣りの仕方』などの本を持参している」と相談を受けたこともある。今年から学校図書整備費が国の予算でつくが、使途は市町村や学校の裁量に任され、図書費に回さないケースもあると聞く。図書費に回す最低額を義務づけるべきだと思う。

【橋本】 読売新聞の世論調査でも、1か月に本を読まなかった人が54%と、年々高くなっている。パソコンと携帯電話の時代における読書をどう考えたらいいのか。

【福原】 eメールや携帯電話で使われる文字の多くは、コミュニケーションの道具ではあるが、必ずしも深い意味を伴っていない。文字には、それ以上に思想や哲学、あるいは人生の知恵を伝える力があるはずだ。例えば2500年前の「論語」が現代まで伝わっているというのは大変なこと。文字が人生や社会に伝える「意味」の大きさを、私たちがどれだけ伝えていけるか、そういう努力をしていかなければいけないと思う。

【林】 子どもが幼稚園の時は、お母さんたちが必死に本の読み聞かせをする。それはもう涙ぐましいぐらい、毎日3冊も4冊も読む。その努力は小学生の頃まで続くが、中学生になって、ふっと手綱を緩めた途端、子供がテレビゲームに走って読書をしなくなる。あれだけの親の努力が、まったく無になってしまう。

【甲斐】 テレビゲームは時間がかかるし、本を読む気力が出なくなってしまう。それこそ目先の快楽に追われ、本を読み通して感動するという、ほんとうの楽しみを知らない人生を送ることになる。

【橋本】 無理に母親が読ませようとすると、かえって反動が出るのだろうか。

【養老】 甲斐先生が本日配られた「高校生の読書の現況」(OECD生徒の学習到達度調査)の資料で、「趣味で読書することはない」高校生の総合読解力が、日本は他の国に比べて1番高い。これをどう考えるか。

【甲斐】 日本の高校生は、読書をしない子供でも読解力だけはついている。それは、学校の国語の授業がよいからだと思う。

【養老】 それが、ひとつにお母さん方の読み聞かせの成果とは言えないだろうか。あと、私は、日本語は非常に情報の伝達性が高い言語だと思っている。日本人は文字を読む場合、仮名を読むところ、漢字を読むところと、脳を2か所使い分ける。普通、世界の諸言語は1か所しか使わない。つまり日本人は、脳を広く使っているわけだ。このように、諸外国と比較する時、日本の場合は読みの比重が高いことを前提に考えたほうがいい。反面、音声に重きを置かないので、日本人が外国語が下手ということになる。

【甲斐】 日本語能力には2種類あると思う。テストで測定できる能力と、目に見えないが蓄積される能力と。読解力テストの点数は、いわば目に見える能力のほうで、私が読書で大事だと思うのは、むしろ「急がば回れ」式の人間教育的な面だ。そちらの能力が小学校くらいで1度ぷつっと切れてしまうのが問題だ。社会人になって古典に帰ろうと思ってもなかなか難しい。

【林】 私がトルストイを今読もうと思っても、絶対読めない。ドストエフスキーも読めない。若くて、体力があって、咀(そ)嚼(しゃく)力があるときでなければ読めない本というのがあって、それを定年後に読もうと思っても無理。だから、高校生くらいの時に一気呵成(かせい)にああいう大作を読んで栄養を取り込まないと、すごくもったいない気がする。

【橋本】 1番問題があるのは、大学生だという話もある。

【養老】 私が勤めている大学の学生にリポートを書かせると、全部インターネットでデータを引っ張り、接ぎ合わせて提出したりする。それじゃ意味がないので、最近は1時間半、缶詰にして書かせると、3行しか書けないような学生がいる。「書く」という習慣が失われているのだ。

【福原】 私は、財界人の文芸同人誌「ほほづゑ」の編集長を務めているが、1920年代に旧制高校を卒業した人の教養と、それ以降の私たちの世代の教養とは格段の差があると感じる。そういう人々は、デカルト、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、それからゲーテの「ファウスト」まで、高校時代に原書で読んでいる。だから経営者としても大成し、人生の最後にすばらしいエッセーを書くこともできる。日本の高度成長は実はこういう人々が支えてきたのだと感じる。

【橋本】 新聞記事でも、書いている記者の教養の深い浅いがわかってしまうものだ。

【福原】 ある方に聞いた話だが、父親に、「君の世代は機関車の後ろの石炭庫に石炭を積めるだけ積め。その代わり走るときが来たら、山のてっぺんまで、石炭を全部使いきるまで走るんだ」と言われたそうだ。その言葉に感激したことがある。石炭は小出しにせず、ためなければ、爆発的な力は出ないものだ。

【橋本】 やはり読書は家庭環境が大事なのか。曽野綾子さんが自分の息子に、「本だけはいくらでもツケで買っていい」と言ったという話もある。

【林】 以前に「母と子で本を読もう運動」というのがあった時、曽野さんが「母と子で同じ本を読むなんて、そんな気持ち悪い」とおっしゃったが、私も同感だ。子供のころ、1番いやなのが、本を読んでいると、母親がさりげなく来て表紙を見ていくことだった。だから、どこかで手綱を緩めつつ、介入もせず、しかも子供を本好きにさせるにはどうしたらいいのか……。私も、いつもそのことについて考えている。

【福原】 テレビでの対談の折に評論家の森本哲郎さんは、世の父親に「読まなくていいから、全集を買って飾っておきなさい、子供は、お父さんがいないときにそれをどこかで見ているはずだから」と言われた。

【養老】 私の経験でも、息子が中学、高校ぐらいのときに、親が読めと言っても大体嫌がる。しかし、30歳を超えたら意見が同じになった。

【甲斐】 洋書店に行くと、子供向けに名作をリライトした本がたくさんあって、シェークスピアでも何でも、自分の能力に応じて読んでいくことができる。それが、いつかは本物をという気持ちにつながっていくわけで、そういう本が日本には少ないと感じる。斎藤孝さんのベストセラー「声に出して読みたい日本語」にしても、小学生に対していきなり鴎外や漱石を薦めているのはどうか。本当は、この10年間にどんな本が出て、その中で、小学生がくり返し読めるもの、中学生が読んで感動するもの、にどんなものがあるかということを、大人が責任を持って推奨するようなシステムが欲しい。

【養老】 絵の目利きだったバーナード・ショーは、秘訣(ひけつ)を聞かれると、「ただ見ること」と言った。彼は骨董(こっとう)店の小僧として目を鍛えたのだが、本も全く同じで、よいものもつまらないものも読んで、自分で目を作っていくしかない。でも、本当にいい書評が欲しいなと私もいつも思う。年間に新刊が7万冊近く出ると言われているが、とても普通の人には選べない本の量だ。

【甲斐】 子供には好きな本を選ぶ目を何とか与えたいが、そのためには、ある程度推薦図書のようなものも必要ではないか。本屋のない地域もあるのだから、それを学校が備えていることが大切だ。

【福原】 最近、書店に行くと、本のことを知らない店員さんが多いという気がする。それでも、ニューヨークあたりの書店に比べるとずっといいそうだが……。書店にはインターネットでの類書検索だけでなく、たった1人でも本という商品を知っている人を置いてくれることを望みたい。「その棚を探してください、そこになきゃないですよ」なんて言われると、買いたい気持ちが失せてしまう。

【林】 宗教学者の中沢新一さんに、どうしてそんなに難しい本をたくさん読めるのかを聞いたことがある。彼は、一つこれが知りたいと思うと、どの本を読めば一番効率的にその知識が得られるかを考えるという。読めば読むほどそれがわかってくるから、知識が体系的にどんどん広がっていく。だから難しいことはないのだと中沢さんは言うが、私のような人間は憧れてしまう。知識が積み重なって、頂上へと向かっていく幸福を、もっと多くの人に知ってほしい。ただの本好きでも幸せな生涯を終えることはできるだろうが、人間ならもっと高みに上りたいと思うはずだ。

【養老】 大学生だけでなく、先生も読んでいない。本を読むという余裕が人生からなくなっている。働き盛りの三十代から四十代のサラリーマンだって読んではいないだろう。私がそのころ本をまとめて読めたのは、鎌倉から勤め先の東大までの通勤時間を利用していたからだ。そういう「切り離された時間」がないと、やはり難しかっただろう。

【橋本】 指導的な立場の企業人で、仕事熱心であればあるほど、読書どころではないと考える人も多いのかもしれない。

【福原】 しかしそれは、会社を今年の業績のみで判断するのか、10年後を見通すのかということと同じだ。本も読んでいないのに点数は全部優ばかりという学生もいるだろう。だが、彼らが実際に世の中に出て、本当に社会を、国家を引っ張っていくリーダーになれるのかは疑問だ。

【橋本】 本日は、活字文化をなぜ大切にしなければいけないのかという点で語っていただいた。今後の議論につなげていきたい。

私の一冊

丸山真男著「日本の思想」(岩波新書)

池田理代子さん(54)劇画家、声楽家

 中学生の時、社会科クラブの顧問の先生に、教科書として渡されたのがこの一冊だった。14歳にはまさにちんぷんかんぷんだったが、我慢して読み通した。今振り返っても、よくあんな難解なものをと思う。しかし、それまで物語を作ることばかりを考え、小説しか読んでいなかった私にとって、初めて論理的にものを考えることを教えてくれ、社会への視野を広げてくれた大切な本となった。大学時代に学生運動に参加したり、後にフランス革命を題材にした「ベルサイユのばら」を描いたのも、原点はこの時の体験と言ってもいいくらいだ。

 その先生はいわゆる熱血リベラル派で、公立の中学校では完全に浮いていたが、男性の魅力とは見た目でなく、知性であることを感じさせる人でもあった。卒業の時にノートに書いてくれた言葉は、「弱者の言は常に正しい かかる社会的真理を追求されたい」。今でも忘れられない。

 最も多感な時期に背伸びした読書をしたことは、人生の大きな財産となった。私の劇画を読んで、西洋史の本を手に取ったという読者の手紙をもらうと、少しは先生の恩を返せているのかとうれしくなる。

プルターク著「プルターク英雄伝」(新潮文庫)

野依良治さん(64)名古屋大学大学院教授、2001年ノーベル化学賞受賞

 アレクサンドロス大王やカエサルら古代ギリシャ、ローマの英雄たちを描いている。小学校低学年のころに初めて読んで、夢中になった。その後、何度読み返したか分からない。

 日本が太平洋戦争に負けた直後だったせいもあり、リーダーとして戦う男の姿に興奮し、感動し、あこがれた。

 子供用に書かれた「三国志」もよく読んだ。男の子は軟弱ではだめで、腕力と体力、気力が大事だということを、こうした本から学んだ。中学、高校で柔道部に入ったのは、男は強くなければならないと信じていたからだ。

 もうひとつ分かったことは、リーダーの条件。周囲の人間と仲良く群れているだけではいけない。時には対立したり孤立しながら、重要な場面では何らかの決断をしなければならない。現代の日本人に足りない要素の一つだと思う。

山本周五郎著「樅ノ木は残った」(新潮文庫)

奥田碩さん(69)日本経団連会長、トヨタ自動車会長

 人生において、誰もが1度だけ経験することが2つある。生と死。受ける生にかかわることは難しいが、迎える死は当人の生きざまを色濃く映し出す。

 原田甲斐。世に名高い寛文事件(伊達騒動)の中心人物であり、悪人であるとされている。しかし、山本周五郎によって描き出されたこの人物の実像は、昭和30年代の初め、まだ社会人になって間もない私の心をとらえて離さなかった。

 伊達六十二万石の分割・取りつぶしをめぐる権謀術数の中で、悪の中心人物のように思われる行動を余儀なくされながらも、耐えに耐えてお家大事を貫く。そして最後の刃傷の場面、久世大和守に「私です、私が逆上のあまり」と虫の息で伝えて伊達家の安泰を勝ち取る。

 自ら信じたもののためには、ただ1度の死を充実したものとする。そこに生きざま、死にざまに対する武士道の美学を感じたのは、私1人ではないと思う。人間はどのようにして死ぬべきか。「樅ノ木は残った」は、私の人生観に確かな影響を与えた一冊に挙げられる。

神渡良平著「下坐に生きる」(致知出版社)

山下泰裕さん(45)東海大学柔道部監督

 4、5年前に読んだ。涙がポロポロこぼれたことを記憶している。30冊買って、知人らに紹介した。

 私は「下坐(げざ)」という言葉が好きだ。自分の中に常に謙譲の心を備え、感謝の気持ちを持って生きろということだ。この本では、それを実践して生きる人たちが登場する。

 これからの人生、私にとって、「下坐の精神」こそが最も大事になってくると思った。周りに持ち上げられても、常に相手に対し、頭を低くして、自分を低く置く。それでいて、志だけは高く持ち続けたいと考えている。

 選手たちにもよく言っている。「何かを得ようとする前に人間性という土台をしっかり作れ。自分というものができれば結果はついてくる」と。若い人たちにぜひ、読んで欲しい。

(2002/11/26)

 

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