第4回活字文化推進フォーラム〜「生きがいとしての読書」

基調講演「活字が消えた2年間」

俵萠子さん(評論家)

本焼けて 迎えた終戦 悲しい風景…私の原点

今日はテレビでもしゃべったことがない、私の本の中にもほとんど書いたことがない話をする。今から58年前、昭和20年の前後のことで、私にとっては非常に重要な意味を持つ2年間についてだ。私は現在、72歳。

昭和19年、つまり日本が戦争に負ける前の年、私は13歳で、大阪に住み、女学校に通っていた。授業はなく、ジャガイモやサツマイモなどを作る農業をやらされていた。人ぷんの入ったおけを担ぎ、下肥やりをしたのが印象的だった。

翌年5月からは、勤労動員で自宅を出て、潜水艦の蓄電池を作る会社の寮に入れられ、作業をしていた。

忘れもしない6月8日。両親が住んでいた大阪の街がアメリカ軍の空襲を受けた。数日後、両親を捜しに、握り飯二つだけを持って、街に戻った。一面は焼け野原で、焼け跡から、プスプスと煙が上がっていた。両親は無事だったが、自宅は全焼していた。農業や勤労動員で勉強が全く出来ず、家の2階の勉強部屋に置いていた教科書や、親に買ってもらった英語の辞書などもすべて焼けた。

活字は元々、白い紙に黒で印刷されているが、焼けると、紙が黒くなり、活字だけが白く浮かび上がり、白黒が逆転する。戦争でほとんど開くことがないまま焼けてしまい、白黒が逆転してしまった辞書の1ページ1ページが、風に吹かれて飛んで行く様子を、涙も枯れ果て、ぼう然として見つめていた。

この時、悲しいというそんな生やさしい表現でもない、何かもう、「私の生活はむちゃくちゃになっちゃったんだ」と思った。

フォーラムの基調講演が決まり、真っ先に思い浮かべたのは、焼け跡の辞書の姿だ。それは本当に、荒涼とした悲しい活字の風景で、私の活字に対する思いも、原風景もそこにある。

その後、食べる物もなく、飢え死にする寸前で、終戦の日を迎えた。新聞も見たことがない、情報も知らない少女たちはみな、敗戦を告げる天皇のラジオ放送で、「耐え難きを耐え」という言葉を、「がんばれ」という意味に勘違いして聞いていた。

先生から「神風が吹いて必ず勝つから」とも言われ、「戦争には絶対に勝つ」と、盲目的に信じ続けていた。終戦を知った夜、私たちは東の方向に向いて座り、「天皇陛下様、私たちのがんばりが足りずにすみませんでした」と、頭を下げて泣き続けた。周囲に正しい情報がないと、こうなるのが人間だ。今の北朝鮮も当時とよく似た状況だと思う。

これらの経験から、世の中には、飢えて死ぬより、正しい情報のない、新聞のない社会はもっと怖いと考え始めた。

敗戦後、今度は進駐軍の検閲によって、新聞は都合の悪いことは書いてはいけない時代になったが、まだテレビもなく、新聞が頼りだった。その後、新聞記者になったが、背景には、この2年間の経験が根底にあった。

新聞記者をやめて独立後、物書きになったが、本とテレビ、ラジオの媒体の違いを如実に感じる。テレビに出演しても、見た人は、服装や髪形の話はするが、中身のことは言わない。ラジオを聞いた人は、中身について発言するが、私にとって1番うれしいのは、本の読者だ。

私は、自分の好きな本は、手で触れて所有し、繰り返し読みたい。活字を一つ一つピンセットでつまんで食べたいぐらい、好きな本が何冊かある。ある読者から、何度も読んでボロボロになった私の本にサインを頼まれたことがある。物書きみょうりに尽きるというか、こんな幸せなことはない。

俵萠子(たわら・もえこ)さん
大阪府生まれ。大阪外国語大学フランス語学科卒業。新聞記者を経て、女性・家庭・教育問題を中心にした評論家に。作家、陶芸家としても活躍する。エッセー、小説、詩、能楽など著書多数。

パネルディスカッション〜「生きがいとしての読書」

「生きがいとしての読書」をテーマにしたシンポジウムでは、著名作家ら3人が、情報媒体が多様化する時代の本や活字の重要性について語り合った。(コーディネーターは勝方信一・読売新聞東京本社論説委員)

■パネリスト

nobuko_takagi.jpg 高樹のぶ子(たかぎ・のぶこ)さん 
作家。1946年、山口県生まれ。東京女子大学短期大学部卒業。短編「その細き道」で芥川賞候補となり、1984年「光抱く友よ」で第90回芥川賞を受賞。恋愛小説の第一人者でもある。今年10月に「ナポリ魔の風」を刊行予定。
yasuhiro_muraoka.jpg村岡安廣(むらおか・やすひろ)さん
村岡総本舗社長。1948年、佐賀県生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、村岡総本舗に入社、1987年に社長に就任。小城羊羹協同組合理事長などを務める傍ら、菓子文化や地域文化についての講演・執筆活動を行っている。
kiyoshi_shigematsu.jpg重松清(しげまつ・きよし)さん
作家。1963年、岡山県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。出版社勤務を経て、1991年「ビフォア・ラン」で小説デビュー。1999年「エイジ」で第12回山本周五郎賞、2001年「ビタミンF」で第124回直木賞を受賞。

——今回の「活字文化推進フォーラム」は、初めて大人、それも中高年を主な対象にした。今、大人の読書離れが問題になっている。「1か月に一冊も本を読まない」人の割合は、1980年代が3割台だったのに、今は5割を超えるほどに増えている。この読書離れはなぜなのか、というあたりからお聞きしたい。

【重松】 郊外の住宅地に家を構え、都心に通う人たちは、通勤・通学時に本を読む。なぜ満員電車で窮屈な思いをして読書をするかというと、内容が読みたいというより、視線の据え場所ができて、精神的に楽になるという、日本人的な理由ではないか。40代、50代、あるいは30代の働き盛りのサラリーマンは、通勤の電車の中ぐらいしか、本を読む時間がないという人も多いと思う。

しかし、携帯電話が普及して、メールを打ったり、情報を検索したりと、本以外の視線の据え場所が出来た。そこで、通勤・通学時の、サラリーマンならではの読書が揺らぎつつあるのだと思う。今は、携帯電話や携帯端末に小説を配信するなど、新しいハードに、ソフトをいかに乗せて行くかという段階にさしかかっている。しかし、携帯電話の画面は小さく、携帯端末もバッテリーなどの問題がある。結局、一番情報量があって、いつ読んでもいい、「本」が、一番のモバイルだと思う。このまま本が携帯に負けるのか、新たなメディアを使って巻き返すのか、本という形で残るのか、今が正念場ではないか。

「アナザーワールド」知ろう

【高樹】 読書の力が落ちてきたことと、家の形、家族の形が変わってきたことは、密接な関係があると思う。大家族だった時には、家に必ず本棚があった。例えば、私の義母は書店の出身で、読書は、食べたり飲んだりするのと同じような習慣だ。両親や祖父母が本を読めば、子供や孫もそれが習慣になる。両親が共働きで忙しく、週刊誌は読むけれど単行本の本棚がないという状況で、子供はどうやって読書の習慣をつけるのだろうと思う。

私の場合、家にあった本を盗み読みしていた。小学校4年生の時、肺結核で半年間寝かされていたが、ラジオで「笛吹童子」や「紅孔雀」を聞いてわくわくしたり、天井を見ながら、自分で物語を作ったりしていた。小説の楽しさは、「アナザーワールド」を得られること。核家族だと、その題材が身近になく、「アナザーワールド」の楽しさを知らないままに大人になってしまう。両親が読書を習慣づけられないのなら、教育の場でくせをつけることも必要ではないか。

俵萠子さんが、「テレビやラジオの視聴者、本の読者の反応はそれぞれ違う」と言われたが、同感だ。著者が全力投球した言葉が、色のない黒い活字で入ってくるがゆえに、人の心の奥深くまで届く。人とは何か——というテーマを考えさせ、共感させるのは、やはり書かれた文章ではないか。社会や家族が細分化される現代で、活字を読む習慣をつけることはとても大事だと思う。

【村岡】 小さい時から、「座ってじっとしている」ことは商売の妨げになるということで、ほとんど本は読まなかった。しかし、後に、あるきっかけがあり、いろいろ情報を集める必要が出てきたことから、本を収集するようになり、活字の力を感じるようになった。調べてみると、国内の出版物の販売額と菓子の販売額は、それぞれ2兆数千億円で、同じぐらいだという。しかし、昔と今とでは、その中身に違いがあるのではないか。菓子で言えば、私の店で作っている羊羹(ようかん)などは、かつて2割ぐらいのシェアがあったが、今はほかの菓子などに取って代わられていて、2%程度に落ちている。本についても、かつてよく読まれていたジャンルが減っているのではないかと思う。活字を読むのはエネルギーがいるが、読めば、強いエネルギーをもらえると確信している。

本との出会い

——これまで読んできた本と、人生の軌跡について語ってほしい。

【重松】 村岡さんの話で言えば、僕はまさにスナック菓子の世代。また、核家族で転勤族でもあり、家には本棚がなかった。

ただ、昭和ひとけた生まれの両親は、活字への信奉心があり、父は子供のころ、吉川英治などを毎晩1ページずつ読んでいたという話をしてくれた。母は、本をたくさん読みたかったけれど貧しくて読めなかったから、僕にはなるべく本を読ませたいと言ってくれた。そのため、日曜日には、当時住んでいた鳥取県米子市の「今井書店」という本屋に1人放り込まれた。1冊だけ買っていいと言われて、背表紙だけを見て本を選んだ。母に感謝しているのは、「こんな本はやめなさい」とは決して言わなかったことだ。本をめくると新しい世界が始まるということを、子供のころに知っておいてよかった。

高校時代、マンガ以外で唯一読んだのは、矢沢永吉の「成りあがり」。何百回、何千回も読み返した。高校時代の自分の感覚に合ったからだろう。「良い活字」、「駄目な活字」というものはないと思う。良い悪いは、自分で決めればいい。そして、たくさん痛い目に遭うべきだ。小学校時代に、本選びで失敗させてくれたという面で、自分の親には感謝している。子供が小さければ小さいほど、その子が読みたい本を選ばせてほしい。

【高樹】 少女時代に読んだ本の中で、最も印象に残っているのは、ヘミングウェーの「キリマンジャロの雪」と、モームの「雨」。両方とも、人間が自然と激しく対立している作品で、自然の圧倒的な力に強烈な印象を受けた。その後、私なりに恋愛もし、人間関係も複雑になってきて、初めて人と人とが作り出すドラマに感動するようになった。

人は、置かれた環境や接する人によって変わるものだと思う。今、女性雑誌に、昭和30年代を舞台にした「マイマイ新子」という、9歳の女の子を主人公にした自伝的な小説を連載している。当時の田舎は、人間を苦しめたり、喜ばせたりする自然が、都会よりもたくさんあった。小学校に行くにも、ずぶぬれになって泥道を歩かなければならないし、雪が積もったらかじかむ足で行かなければならなかった。その分、自然の恵みも大きかった。今は、喜びも苦しみもあまりに小さい。読書は、自然とのかかわりを、疑似的に体験させてくれる。現代では感じられなくなってしまった四季の移ろいなどを伝えてくれる文学は貴重だと思う。

先人の知恵 気軽に学んだ

【村岡】 20年ほど前、あるテレビ局から、「羊羹の番組を作りたいので、資料がほしい」と言われ、困ったことがある。その時、思い出したのが、以前に買っておいた「日本料理秘伝集成」という19巻の本だった。それを読み、羊羹の情報だけでなく、外国料理のことなども知ることができた。例えばポルトガルとかスペインから来た、「南蛮菓子」が、どういうものだったか、日本人が料理を作るのに、絶えず工夫をしてきたかがわかる。そうした情報が活字になっていることで、私たちは今、気軽に活用できる。仕事の上で役に立つだけでなく、励まされているとも感じる。本にはひたすら感謝している。

活動のテーマ

——みなさん、家族、恋愛、地域文化など、それぞれに明確なテーマを持っておられるが、それをどのように書いてきたのか。

【重松】 テーマというか、私がなぜ小説を書くのか紹介したい。私は週刊誌などのフリーライターの仕事もしており、実は作家の仕事より楽しい。それは身もふたもない現実を扱うからだ。ただ、それだけではないと思うから小説を書いている。例えば、私の小説「ナイフ」は、息子をいじめるやつらをやっつけようと父親がナイフを背広の胸ポケットに入れて歩くが、本番ではナイフを抜けなかったという話だ。父親が本当にナイフを抜いて刺してしまったらニュースになる。しかし、ナイフが抜けなかった人の心は、小説の形でしか表現できない。

——小説なら心のひだ描ける

また「エイジ」では、友達が通り魔になってしまった中学生を描いた。マスコミは、犯人の少年のことはしつこく追いかけるが、その周りの少年については「14歳が危ない」などと一般化する。その大勢の少年1人1人の心のひだを描くのも、物語の世界の役目だろう。私は、情報だけで流れる週刊誌も大好きだ。しかし、一番の弱点は、分かりやすくすることで大切なものがどこかにこぼれてしまうことだ。それを文学は何百枚、何千枚と書ける。本を読むことで情報を得るのもいいし、深い感動を得るのもいい。私は、その両方の仕事をやっていきたい。

【高樹】 恋愛小説は、恋愛の役に立てるためではなく、恋愛を味わって楽しんでもらうために書いている。ただ、恋愛に浸った後に少し知らないことも知ったという“おまけ”をつける努力もしている。例えば、来月出版の「ナポリ魔の風」は、ナポリという魔都で、冷酷で魅力的な男に振り回される女の話だが、おまけとして、カストラータというオペラ創成期に活躍した去勢歌手に関する歴史的事実を加えた。小説の中で情報や知識を伝達する方法もあると思う。

女性は「アナザーワールド」に遊ぶのがうまい。つまり、日常とは別の世界にトリップできる。一方、男性は社会的な生き物だから、歴史小説を読んでも徳川家康の生き方を現代に役立てようという読書が多い。男性には、アナザーワールドを楽しむ読書が目減りしているかもしれない。私はアナザーワールド、つまり恋愛の甘苦しい感覚を味わえるものを提供したいと考えている。そのためには、私自身がアナザーワールドを信じ込み、自己妄想を増殖させなくてはならない。水に向かってノミを振るうようなもので、疑ったとたん水没してしまう。もう一つ、人間は置かれた環境によって変わっていく相対的存在だから、ある状況の中に放りこまれた人間の変化に興味がある。

——村岡さん自身のテーマ、そして読書とは何か。

【村岡】 私としては、まず羊羹というものを知らなければならない。「羊」の語源は「美しい」。「羹」は「羹(あつもの)にこりてナマスをふく」といって、もともとは中国の吸い物のことだが、これも「美しい」が二重になっている。合わせて「美しい」が三つ並んでおり、「羊羹」は中国では最高においしいものを表していた。もともと中国にあった食品「ういろう」の形が合わさって、今の羊羹ができたのではないかというのが有力な説となっている。新聞で「羊羹百話」という連載をやっている時に勉強させてもらったのだが、こういう作業の中から、地域と菓子への思いが高まった。

最近は、いろいろな本を読みながら、何か新しい発見はないかと常に意識している。実は息子も同じだ。親子で同じ本を読んで同じことを考えながらやっていくと、また仕事もつながってくる。つなぐ一つの絆(きずな)が読書、本であるのかなと、非常に感謝している。

パネルディスカッション〜「広がる新しい世界—感動を次の世代に—」

読書と人生

——最後に「生きがいとしての読書」というテーマから何を考えるか。

【重松】 まず一つは、高樹さんの言う「アナザーワールド」という言葉だ。人間は、たった一回しか人生がないから本を読む楽しみが増える。自分の今の毎日とは違うアナザーワールドが本にはある。ページをめくるたび、主人公と一緒に冒険したり、恋愛したり。想像力豊かな少年少女もそうだが、ある程度年をとり、自分の人生が確立した大人にこそ、いろんなアナザーワールドを楽しんでほしい。

もう一つは、テレビなどと違い、ゆっくり読んだり読み返したりと、自分のペースで楽しめるということだ。最後は、本というのは文章、言葉という、ある面では不親切な表現だからこそ、多くの経験を積んだ大人こそが深く味わえる点だ。昔読んで感動した本を読み返すと、年とともに味わいも異なる。子や孫に「お父さんが感動した本だよ」と推薦することで、世代をつなぐ楽しみ方もある。こういうことが、生きがいにつながるのだと思う。

【高樹】 読書は精神活動そのものだと思う。一つの人生しか生きられない中、どれだけの精神活動が可能かというところが、まさに読書にかかっている。中高年になれば残り時間も限られてくるからこそ、たくさんの人生を生きる読書の意味も大きくなってくる。

もう一つ、読書で最近欠けてきていると感じるのは、骨のあるものをかみ砕いて飲み込む喜びだ。かみ砕かれて映像化され、耳からも目からも入る情報は、受け身でいても一応は入ってくる。しかし、自分から働きかけてかみ砕き、飲み込んで消化するという達成感や喜びは、他のメディアでは得られない。その喜びを見直したい。成人男性にはアナザーワールドに遊んでほしいが、同時に未来を担う子供には、自分の頭、精神で読み砕く喜びを知ってほしい。校内マラソンを完走した喜びは、読書にもあるのだと思う。

【村岡】 最近は、羊羹は重いからと食べないという人もいる。しかし、実はコーヒーに合う食品の三番目だとの調査もある。実際に試したが、例えば、小倉(おぐら)の羊羹でコーヒーを飲むと非常に合う。しかし、こういうことがなかなか活字になっていない。文化とか地域を活性化するような活字を、ぜひ作ってほしい。一方、自分では活字を作る力はないという方も、評論する力をもってほしい。これも、また活字の役割だ。「味の文化」といったものがヨーロッパにはあり、フランスではランク付けや勲章もあるが、日本では残念ながらまだまだだ。芸術文化と同様に、「食」という生活文化に根ざしたところにスポットを当てるのも活字文化の役割だ。これが文化と地域を活性化させるために、非常に大きな力を発揮するものと期待している。

——なかなか本が読めないというのは、時間がないこともあるが、気持ちの余裕がなく読めないということもある。今回のテーマは「生きがいとしての読書」だが、読書によって人生を活性化しなくてはいけないと思うと息苦しくつまらないものになる。逆に、読書という楽しさ、味わいを知ると、それが生きがいとなり人生を活性化する。目的化するのではなく、読書をまず取り戻す。それによって、自分の人生が結果として豊かになっていくものだと感じる。

堀田力さんの薦める3冊〜自分の可能性信じる大切さ

「生命のバカ力(ぢから)」(村上和雄著・講談社+α新書)

「たった一人の再挑戦」(加藤仁著・読売新聞社)

「この世の中に役に立たない人はいない—信頼の地域通貨タイムダラーの挑戦」(エドガー・カーン著、ヘロン久保田雅子・茂木愛一郎訳・創風社出版)

長期化する不況、高い失業率、強まる老後の不安——。中高年を取り巻く状況は厳しい。高齢者福祉やボランティア活動に詳しい堀田力・さわやか福祉財団理事長に、「中高年を元気にする3冊」を選んでもらった。

若いころの手当たり次第の読書と違い、中高年の読書は「自分の人生を整理しながら、より深めていく」ことが目的になる。好きなジャンルが決まっていて、書店に行っても、ほかの棚はあまり見ないという人が多いかもしれない。しかし今回は、若者のような「自分を広げる」読書をあえて勧めたい。

「遺伝子」という一般にあまりなじみのない分野を紹介しながら、中高年を励ましてもくれるのが、『生命のバカ力』だ。

筑波大名誉教授である著者は、人間の遺伝子のうち97%は眠っている、つまり「OFF」の状態であり、それが何かのきっかけで「ON」になると、目覚ましい力を発揮すると説く。「人の可能性は様々で、一つの分野でうまくいかなくても、別の道で花開くことがある」という指摘は、わかりやすいデータと著者自身の体験に裏打ちされており、読むと、「能力をもっと『ON』にしよう」と意欲がわいてくる。

『たった1人の再挑戦』は、一流企業を自ら、あるいはリストラなどで辞め、新しい道に飛び込んだ人たちを丁寧に取材した本。成功事例も多いが、世間的には必ずしも成功したとは言えないケースも紹介されている。

登場する人はみな、「夢」を持って挑戦している。そして、たとえ失敗しても、死にものぐるいで努力したことや、それまでと違う体験をしたことにより、彼らの人生は広がり、深まったと実感させられる。

一方、『この世の中に役に立たない人はいない』は、貨幣が絶対的な価値を持つ「市場経済」とは別の価値観を持つことを提案する。

人はだれでも、200ほどの能力を持つという。ピアノを教えられる、留守番が出来る、人の話を聞ける——など。だが、「市場」で生かせるのはその一握りにすぎない。しかし、人々が、地域内だけで使える地域通貨などを介して、それぞれのできることを交換し合う「非市場経済」であれば、あらゆる能力を生かすことが可能で、「役に立たない」人はいなくなる。みんなが、自分の存在価値を確かめられるのだ。

現在の中高年世代は、リストラなどに遭い、「自分は駄目だ」と落ち込んだり、うつ病になったりする人もいる。そうでなくても、「自分を生かしている」実感に乏しいのが実情ではないか。しかし、それで「自分はこれだけの人間だ」と思いこむことはない。

「OFF」だった能力を「ON」にすることに努力してもいいし、「市場経済」から1度離れて「非市場経済」で自信を取り戻し、もう1度「市場」に挑戦するという道もあるだろう。

この3冊が、中高年層が「自分の可能性を信じて、生かす」ことの重要性に気付くきっかけになれば、と思う。

(2003/09/29)

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