21世紀活字文化プロジェクト

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活字文化公開講座

2003/10/20

活字文化プロジェクト、阿川弘之さんら早大で講演

■出演
阿川弘之さん(作家)
森まゆみさん(作家・谷根千編集人)

 全国の大学を会場に行われている「活字文化公開講座」(主催・活字文化推進会議、早稲田大学)が18日、東京都新宿区の早大井深大記念ホールで開かれた。活字の重要性を訴える講師陣の話に、集まった約400人の聴衆は熱心に耳を傾けていた。

 活字文化を守り育てようと、読売新聞社が提唱した「21世紀活字文化プロジェクト」の一環で、作家の阿川弘之さんが「日本人のユーモア」、作家の森まゆみさんが「記憶から記録へ」と題して講演。万葉集に残されたユーモア豊かな作品や、地域雑誌の編集体験などについて語りながら、文字が果たす役割の重要性を強調した。これを受けて、早大教育学部の金井景子教授が関連講演を行った。

 最初に登壇した阿川さんは「文字は文化を発展させるきっかけになった」と強調。その上で、日本人とユーモアについて話題を展開し、「万葉集にもユーモアがあり、日本人にそのセンスが欠けているわけではない。大人の知恵であるユーモアが、生活にも文化にも必要だと認識する必要がある」などと述べた。

 続いて、森さんが、自ら編集人を務める地域雑誌について講演。森さんは「地域の歴史を住民に話してもらい、それを記録しようと思った」と発刊を決めた理由を語り、「自分たちのことを書き残す人が少ない中、それを(活字にして)次代に伝えていくのが大事」と話した。

 一方、金井教授は「活字は様々な縁を広げる」と述べたうえで、活字に興味を持つきっかけにしてもらおうと、定期的に文学作品などの朗読会を開いている自身の取り組みを紹介した。

基調講演「日本人のユーモア〜文字に書かれた笑いの歴史」/阿川 弘之さん

文字を持ってから人類は急激に進歩

20031020_01.jpg 活字文化のもとは、日本でいえば、江戸時代は木版刷りとかの印刷方法で、その前は、もう写本になるわけです。基本になるのは文字であり、この文字がいかに大事かということを、明治の文豪、幸田露伴先生が『太公望・王羲之』で「文字の大切なものであることは今さら申すまでもありません。これがあったために人類はほかのものとは比較にならぬ進歩を遂げて、いわゆる万物の霊長となり得たと申してもよろしいのであります。文字ができる前の人類の進歩は、いかに遅々として幾万年を過ごしたことでありましょうか。文字が生じ出されてからの人類の進歩はいかに俄然として急激、迅速になったでありましょうか」と触れておられます。

話し言葉100万年、書き言葉は6000年

 話し言葉の歴史と書き言葉の歴史、別の言葉を使えば文字言語と音声言語の歴史の長さは、まるっきり違うんです。露伴先生は中国大陸で漢字が生まれたのは、約紀元前3700年と書いておられますから、今から五、六千年昔ということでしょう。言葉のほうは人類学の学説がころころ変わるので、はっきりしたことは言えませんが100万年単位です。100万年と6000年は、どっちも大昔のような気がしますが、鉄道のキロに直してごらんになると、えらく違うことがよくわかります。1メートルを1年とすると1キロは1000年です。そうすると100万年は、東京駅からどのぐらい離れているかというと下関です。新幹線じゃなくて、在来の東海道線、山陽本線をたどっていって、下関は千九十何キロです。お猿の仲間が二本足で歩き、言葉を話せる人という別の種族をつくったのが下関なんです。6000年、7000年の昔がどの辺になるかというと、大阪、京都、名古屋、全然違う。品川は東京駅から6.8キロですから、6800年前になり、まだ文字ができてません。やっと浜松町か田町のモノレールの辺で、世界に文字ができるんです。それが日本へ入ってくるのは、新橋駅あたりです。人類は賢い哺乳類でしたが、文字が現れるまでは、あんまり進歩しなかったのです。文字が生まれて数千年の間に著しく進歩し、ここらあたりは30年ぐらいで昔の何百年の進歩を遂げています。この意味でも祖先がつくり出した文字というものを、もっともっと大切にしなくてはいけないと思います。

 文字を持ってからの日本人の進歩の仕方は、明治維新の前と後ろでは大分違うんです。それまでは主としてアジア大陸、はっきり言えば漢民族と、それを受け継ぐ朝鮮民族から受け継いだ文化を、日本流に発展させてきたんですが、明治維新以後は、西欧から入ってきた文物、制度、文化を日本流に吸収、咀嚼(そしゃく)し、今日の新しい日本の文化、文明、技術も含めてつくり上げました。西欧のいろんな国から新しく受け入れましたが、大事な国の一つが大英帝国でした。しかし、英国人が非常に大切にしていて、日本人があまり受け入れなかったものがユーモアなのです。

英国人にとって最も大事なものはユーモア

 人間は神でもないけど、獣でもない。非常に矛盾したところを持っている高等動物であって、そのもやもやの中に巻き込まれずに、一定の距離を置いて見ることを覚えれば、必ずユーモアが出てくる。だから英国人にとってユーモアというものは、危機的状況に立たされた時に、最も大きな価値を発揮するという結論に達したというのです。これは非常に卓見だと思います。そうでないとどうなるのか。その時の時流の中へ巻き込まれますから、ある時は無茶苦茶な戦争をしてでも天皇陛下のために死ねと、極端でいびつな考え方にとらわれるか、そうじゃなくてその反動で、早く共産国にしなくては、日本はだめだという。これ、もうこのごろ見ませんけどね、この大学でも(笑)。それを避けることができるのがユーモアというものの一得、一得というかイギリス人にとって、最も大事な精神的価値の一つだと言われるゆえんだと書いております。

 英国人というのは、いろいろ人種的差別観や腹黒いところもあり、一筋縄でいけるような民族ではありませんけれども、大人の知恵を持った民族だということは、はっきり言えると思います。イングランドとスコットランドというのは、近年まで別の国であって、強い対立意識があったようです。ある時、ロンドンの国会でイングランド出身の議員がスコットランドを侮辱する演説をやった。「我がイングランドで馬しか食わない燕麦をスコットランドでは人間が食べている」と言ったんですね。永田町で、これをやったら大変ですよ。謝罪しろ、辞職しろ、差別用語だというので大騒ぎになるのに決まっています。ロンドンの国会で何が起こったかというと、すぐスコットランドの代表が立ち上がって、「ただいまイングランド出身の何議員の、イングランドでは馬しか食わない燕麦を、スコットランドでは人間が食っているというお説を謹んで拝聴した。おっしゃるとおりです」と言うんですってね。「だからこそスコットランドの人間が優秀で、イングランドの馬が優秀だ」と言う(笑)。これで満場は大爆笑で、殴り合いにも何にもならなかった。これは何か、大人の知恵だと思います。

 夏目漱石はじめ、英国に学んだ日本人の文学者たちが明治以後、そういう英国の知恵、特にユーモアのセンスというものを、しっかり受け入れてきたかというと、ある意味で漱石は受け入れたでしょうね。漱石は英国で受け入れたというよりも、江戸時代末期の生まれですから、やっぱり戯作者の伝統を持っていたし、落語が好きだったし、日本の伝統的ユーモアの精神というものを、どこかに持っていたと思うんです。後期のものは違いますけれども、例の『坊ちゃん』を初め、『吾輩は猫である』、非常にユーモラスな優れた作品を書いた近代文学者の1人であります。

 しかし、その後、明治から平成に至るまで、日本の近代文学の中に、極めて優れたユーモラスな作品を残しているという作家はあんまりいないです。皆無ではありません。例えば内田百先生、例えば井伏鱒二先生、いわゆるポピュラーなものでは獅子文六先生、そういう人たちが優れたものを残しております。優れたユーモア文学をつくり出すには、人間を極めて冷静な目で見る、冷たいぐらいの冷め切った目と精神と、それをあらわすだけの文章上の技巧、あるいは構成力というものがなくては出来るものではないのです。英文学の専門の友人に聞きますと、英国の文学からユーモアというものを抜いては、英国文学は成り立たないと言われるぐらいですけれども、明治以後の日本の近代文学では、ユーモアを作品の味つけ剤ぐらいにしか考えてこなかった傾向があります。

日本人の祖先はユーモアのセンスがあった

 私どもの祖先が、千何百年前からユーモアのセンスを持たない、ただ生まじめ一方の民族であったかといったら、そんなはずはないんです。文字に書かれた記録がそれを証明しております。古くは『万葉集』です。『万葉集』も末期の16巻あたりに、そういう非常にざれ歌というか、ユーモラスな、滑稽な歌が幾つもあります。平安朝は女流文化の時代になって、ユーモラスなものを見つけようと思えば、『古今著聞集』とか『今昔物語』とかにあって、『源氏物語』には、あんまりないように思います。時代が下がると、狂言というものが出てくるでしょう。日本語がもう少し世界語の性格を持つことができたら、狂言は世界に冠たる笑いの演劇じゃないでしょうか。古くはギリシャの喜劇、新しくは西洋のシェークスピアの喜劇に匹敵して少しも劣らない、優れた笑いの演劇であると思います。江戸時代に入ると、ユーモアのセンスをたたえた芸能、文学、芸術の花盛りになります。浪速でもありましたけれども、特に江戸において、その一つは、例えば落語です。落語というのは文字の芸術ではありません。話芸でありますけれども、たった1人で5人も6人も10人もの人間を演じます。世界に出して実に堂々たるユーモア文学とは言えないですけど、ユーモラスな芸だと自慢できるものがあります。

 こういう伝統を持っていたのが、なぜ明治維新で花開かずに、花すぼむ感じになったかというと、一つは富国強兵という理想に向かって国民みんな一生懸命になったからです。明治維新で外圧によってオランダと清国、朝鮮以外のよその国に国を開かなくちゃいかなくなった時に、アジアを見回してみたら、ちゃんとした独立国なんて、ほとんどありゃしないんです。明治維新の志士たちが、日本も西欧の植民地にされてしまうという危機感を持ち、それでとられた政策が富国強兵です。産業を興し貿易を盛んにし、強い陸海軍を建設して日本の独立を守ろうという、極めて妥当な国是でありました。当時は一億一心と言ったけど、こうなっている時には、ほかのことは見えなくなるんです。そのうちの一つがユーモアです。

 もう一つは、私の父親が山口県ですから遠慮なしに言いますが、薩長の田舎武士、しかも下級武士が、東京へ天皇さん担いで入ってきたということです。これがおまわりさんの規制にまで及んでいて、「こら、なんばしよっとか」と言うんじゃ、あんまり江戸っ子の笑いは伸びなかったでしょうね。戦後、アメリカの影響を受けて変わったかというと、あんまり変わってないですね。これは、残念なというよりも警戒すべきことなんで、ユーモアというものがもっと我々日本人の現代生活にも現代文学にも必要だということを、認識する必要があるだろうと思います。

ユーモアを大切にした帝国海軍

 まことに変な話ですけど、日本人のつくった社会で、ユーモアというものを大事にせよと、口をすっぱくして言った組織が一つだけあります。それは58年前に滅んでしまった帝国海軍です。海軍ではユーモアのセンスを解せざる者は、海軍士官の資格なしといって、非常に、そのことを強調しました。つまり、英国の上流階級のまねを一生懸命やろうとした結果なんです。幕末に海軍はオランダから、陸軍はフランスから学びました。しかし、明治以後は一貫して海軍は英国を、陸軍はドイツをお手本にしました。それが陸軍と海軍の違いにはっきり現れて、海軍は英国式の大人の知恵を働かすところがあったんです。

 例えば遠洋航海というものがあります。あの時代、海軍の軍人が比較的広い目で世界を見ることができたというのは、二十になったかならないころに、ヨーロッパや南北アメリカなどを見て回ったからです。ただで世界漫遊やらせてくれるかというと、そうじゃなくて、航海中は訓練に次ぐ猛訓練で候補生を鍛え上げるわけですけれども、中尉クラスの指導官づきというのが一番怖い。鬼の鈴木というのがいて、鍛えに鍛えていたんですが、ヨーロッパ遠航が終わり、最後の那覇だか鹿児島だか港へ入るころになると、にこにこし出したんです。鬼の鈴木中尉は帰国して間もなく大尉に進級して、東京にいるフィアンセと結婚するんですが、4か月ぶりのフィアンセとの再会というので、「八雲 鈴木中尉 何月何日何時何分ごろ横須賀入港の予定」という電報を打つわけです。それをもらった東京のお嬢さんは、海軍に縁のない家庭のお嬢さんだから、民間電報を海軍士官に送ると、どう扱われるか知らないで、信書の秘密を保って通るものと思っているから、「まあうれしい  花子」と書いて出したわけです。

 横須賀郵便局から横須賀公務部という海軍の施設に一括して配達された電報を、公務部が一通一通チェックし、緊急を要すると思うのは手旗信号で、あるいは夜なら発光信号で、その船に送ってやるんです。非常に気をきかしたのがいて、「まあうれしい 花子」というのも送ってやれよということになったんですね。戦艦山城を呼んで、「八雲鈴木中尉あて民間電報あり、中継頼む」という信号を発信、「了解 送れ」というので、「本文、まあうれしい 花子 終わり」(笑)。山城からも直接見えないんで、もう1隻巡洋艦というのがある。「了解 送れ」「本文、まあうれしい 花子 終わり」。これ、三段跳びで届くわけです(笑)。

 笑ってらっしゃるけど、公務ですから、全部、当直日誌に書いてあるわけです(笑)。当直将校が午後点検に回ってくると、「何じゃ、こりゃ」。それで怒られたかというと、みんな喜ぶんだそうですね。それから鈴木中尉は大尉になっても半年ぐらい、会うたびに「まあうれしいが来たろう」とやられたものだそうです。

 まだまだ1時間話すぐらいあるんですが、森さんにご迷惑かけますから、中途半端ですけどおしまいにします。繰り返しますけれども、どうかユーモアというものの価値をお互いさま、もう少し大事に考えて、今後の活字文化の交流に資していこうと思います。

基調講演「記憶から記録〜聞き書きという仕事」/森まゆみさん

「谷中・根津・千駄木」記憶から記録へ

 本にまつわる仕事がしたくて、大学を出て小さな出版社に潜り込みました。会社に行く途中に、いいにおいがするヒノキの桶を作っているおじさんがいます。ある時、自分の近くに住んでいる人の生き方とか生活もわからないので、私は何をしているのかなという気持ちがしたことを覚えています。結婚して子供が生まれ、フルタイムで働けなくなったものですから、自分の町のことを調べ始めました。活字資料は一次資料と言われますが、そういう資料がないんです。文京区ですと区史がありますが、これは区政史なんです。何代目の議長が誰だったとかは書いてありますが、住んでいる自分たちの暮らしというものが、ほとんど記録されていません。それを記録しようと思い立ち、1984年の秋から地域雑誌、『谷中・根津・千駄木』という、非常に質素な雑誌をはじめました。

 地域のことを記録していこうと思った時、まず考えたのは、何代もそこで生まれ育った方に、古いこの町の様子を書いていただこうと依頼することでした。いついつまでに3枚で書いてくださいと言っても、誰も書いてくれません。文章を書くのというのはひどく苦手なんです。特に年配になられると、ますます不得意で嫌だとおっしゃる。お書きになっても、大体最初から挨拶が多くて、最後までずっと挨拶だったりします。困りまして、もうしょうがないから、自分で聞いて書くことにしました。

情報源は酒屋さん

 最初はどうやって聞いていいかわからず、84歳の方の所へ行って、今までの人生で一番印象的なことは何ですかとか、そういう聞き方しかできませんでした。向こうも困っちゃって、「そう言われたってねー」と。聞かれる立場になれば、その通りで、最初はそういう稚拙な聞き方しかできませんでした。聞き書きは誰にでもできると思われるかもしれませんが、これには技術が要るし経験も要る。ある意味では、警戒を抱かれずにスーッと相手のほうに入っていく、キャラクターというのもあるんじゃないかと思います。ノンフィクション・ライターの方などで、怒らせて話させるという手法をとる人がいます。でも、私たちの場合は、長年住んでおられる地域の歴史、あるいはその方一人一人が持っている経験とか、知恵とか、体験とかを検証するというか、大事に思って書きとめていくということなので、気持ちよく話していただくようにしております。

 みんなの情報が集まってくる場所というのがありです。酒屋さんなんていうのは、そういう所です。御用聞きというか、届け物をしている店というのは町の中の実情をよくご存じですね。突然行って、「済みません、この地域の歴史を聞かせてください」と言っても、「知らねえよ」と言われてしまいますが、「角の武蔵屋さんのご主人に、こちらのご隠居さんが一番詳しいと聞いて来たんで」と言うと、「そうか、酒屋さんの紹介じゃ、仕方ないな」とかいう感じで、根回しとか、紹介というのは結構古い町では効くんです。また、例えば「あそこの角を曲がった所の高橋さんのおばあちゃんがさ」とか言い出した時に、「どこの角ですか。高橋さんて誰ですか」と聞くと、「まどろっこしいね」と話が止まっちゃうんです。「ああ、あそこの角の高橋さんですね。あそこのおばあちゃん、こういう方ですね」という感じで相づちを打てないと話しは進まないんです。そういうわけで、多分私は20年間で何千人かの方から話をお聞きしましたが、地域の中なら住宅地図のレベルで、どこに誰がお住まいかということはわかっていると思います。

地域の歴史からどう生きるかを学ぶ

 私たちの地域は、大正の関東大震災や昭和の空襲でも、珍しく焼けませんでした。いま不忍池の地下駐車場の建設反対運動をしていますが、これを機に、大震災でなぜうちの町が焼けなかったのか調べてみました。確実に言えることは、不忍池の水と上野の山の緑です。あの時は風向きがしょっちゅう変わり、下町からの火の向きが変わって上野の駅舎は大体焼け、料亭にも燃え移って──見てきたようなことを言いますけれども、そこから上野の山には火が来なかったんです。あそこは今よりもはるかに湿った深い森があって、がけ際で火が止まったんです。もう一つが不忍池の水。不忍池の水を中継送水して、湯島の岩崎邸あたりも消しているんです。そういう意味で、自分たちの地域の歴史をきちっと学び、記録していくことは、過去を振り返るというだけではなくて、現在をどう生きるか、あるいはこれからどうしたらいいのかという歴史の教訓を酌み取る……、教訓と言うとちょっと説教がましいですけれども、役に立つことだと思います。

 もう一つだけ言いますと、昭和2年の渡辺銀行の倒産というのが、私たちの町の人にとって大変ショックで大きな出来事でした。これが引き金になって中小銀行が次々倒産して昭和恐慌になるわけですが、なぜ渡辺銀行かといいますと、うちの町が渡辺銀行の本拠地だったんです。本拠地だから、つめに灯をともすようにして貯めた、なけなしのお金を全部、渡辺銀行に入れていた人が多かったのです。ですから、倒産した時には、虎の子がみんなパーになってしまい、精神をおかしくした人や自殺した人もあるように聞いております。その直前になって何か怪しい、危ないらしいといって全部引き出して助かった人とか……。昭和2年を知っている人といったら明治の生まれだったりしますけれども、そういう記憶が集団的にあるわけです。

聞き書き20年、明治はさらに遠くへ

 聞き書きを始めたころは、まだ明治20年代生まれという方が結構いらしました。『長生きも芸のうち』という新内語りの岡本文弥という方の単行本で聞き書きをしましたが、彼は明治28年の生まれでした。最初に話を聞いた時びっくりしたのは、私が生まれた時には樋口一葉さんはまだ生きていましたよと言うんです。一葉は明治29年に24歳で亡くなっています。そう言われた途端に、何か樋口一葉と自分がつながるような感じがしました。明治30年代に私たちの町にあった藍染座という芝居小屋の話とか、明治の末年まで団子坂で行われていた菊人形の話、これはもう覚えている方はいらっしゃらないんです。45年に生まれたとしても、90歳を過ぎていらっしゃるわけですね。文献を読むのはいつでもできますので、話を聞くのが先で、聞いた話をある程度まとめておくことが急務だと思っています。いなくなってしまうから聞くということではなく、これは次代を受け継ぐ私たち世代の責務ではないのかと。

 私はこのように、聞くことでその人の感情とか悲しみ怒りというものを、自分の中で体験して思索します。例えば、私は戦争を全く知りません。戦争を体験した人たちから、空襲で防空壕に隠れていて、出てみたら、おみそ汁の実にしようと思ってきれいに洗ってむいておいた里芋に、まるでハリネズミのようにガラス戸の破片が突き刺さっていたとか。そういう話を聞くとぞっとします。こういう話をたくさん聞いてきましたので、ほとんど自分で体験した気分になっていて、山田風太郎先生にお会いした時、いろいろ話のつじつまが合い過ぎるものですから、「森さん、それで、その時あなたはどこにいたの」と言われてしまいました。

 普通の人が生きていて、そんなにお金持ちもいないし、一生懸命働いてあっと言う間にいなくなってしまうような町が、私は一番好きです。「貧乏と言えど下谷の長者町 上野の鐘のうなるのを聞く」という歌があります。こういう気持ちでこれからも生きていきたいし、皆さんのお話を聞いて書きとめていきたいと思っています。

(2003/10/20)

阿川弘之(あがわ・ひろゆき)
日本芸術院会員。東京帝国大学文学部卒業。終戦を海軍大尉として中国・漢口で迎え、翌年帰国。志賀直哉に師事し、従来の戦争小説とは一線を画す文学性豊かな作品群を生み出してきた。1999年、文化勲章受章。主な作品に「山本五十六」「春の城」「志賀直哉」など。
森 まゆみ(もり・まゆみ)
早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学新聞研究所修了。出版社勤務後フリーとなり、1984年東京の下町を舞台にした地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を発刊。上野不忍池の保全などにも携わる。著書に「谷中スケッチブック」「鴎外の坂」「明治快女伝」など。 

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