21世紀活字文化プロジェクト

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活字文化公開講座

2003/11/04

明治大学で活字文化公開講座、逢坂剛さんらが講演

■出演
逢坂剛さん(直木賞作家)
堀江敏幸さん(芥川賞作家・明治大助教授)

 全国の大学を会場に行われている「活字文化公開講座」(主催・活字文化推進会議、明治大学リバティ・アカデミー、明大広報部)が11月1日、東京都千代田区の明大リバティ・ホールで開かれた。

 読売新聞社が提唱した「21世紀活字文化プロジェクト」の一環で、直木賞作家の逢坂剛さんが「活字のパワーを取り戻せ」と題して講演。その後、芥川賞作家で明大助教授の堀江敏幸さんが関連講演を行った。

 公開講座には約400人が参加、熱心にメモを取るなどしていた。

 逢坂さんは若者が本を読むことの重要性を強調。現代に比べて圧倒的に書物が少なかった江戸時代、読書や勉学に若いときから励んで出世した人物を紹介、「本を読めば教養になり、人生を豊かにしてくれる。受験戦争で本が読まれなくなったが、若いころに読まなければならない」「パソコンや映像文化が広まっているが、このままだと人間が退化する」と訴えた。

 「本のある街にて」と題して講演した堀江さんも若者の読書離れを懸念。「雑誌しか買ったことがなく、文芸書を自分で探せない学生がいる」と述べ、「大学の周りに本屋が並ぶ街にするなど、本を読ませる環境の整備が大切」と語った。

 両氏の対談では、互いの読書法などのテーマを話し合い、「重要な部分にマーカーで印をつけるなど、惜しげもなく本に書き込む」と述べた逢坂さんに対し、堀江さんは「私は何も書き込まない。印をつける必要があれば、同じものをもう一冊買う」と応じた。

基調講演「活字のパワーを取り戻せ」/逢坂剛さん

受験戦争で活字離れに

20031104_01.jpg 活字が読まれなくなったのは、携帯電話やパソコンが普及したためと一般的にいわれておりますが、それは当たっていると思います。私は今、自宅から神保町の仕事場まで京王線で毎朝通勤していますけれど、去年ぐらいまでは、電車の中で、大体携帯電話をカチャカチャしていらっしゃるんですね。若い女性が多いんですが、男性も結構多い。本を読んでいる人はほとんどいなかったんです。ところが今年になって、文庫本ですが、読んでいらっしゃる方が、またポツポツ目につくようになった。携帯電話等が普及して飽きられたというよりも、実用化して、あんまりカチャカチャやるより、本を読もう、という気分になってきたんだろうと思うんです。これはいいことです。

 ただ、もっと根本的な大きな理由は、やっぱり教育システムにあると思います。いわゆる受験戦争です。私の娘も、今もう社会人になっていますが、例えば小学校の低学年ぐらいまでは、よく本を読んでいました。でも、私立の中学に入れるために塾に通ったりし出した時から、本を読まなくなりました。読んでいる暇がないわけです。中学、高校とつながっておりますから、中学時代から高校の初めぐらいまでは、まだ本を読んでいたんですが、大学受験が迫ってくると、本を読まなくなる。それの繰り返しで、結局、読書習慣は根づかないまま、大学へ上がってしまうという状況になったわけです。

 受験にもめげず本を読まれる熱心な学生さんも、いるとは思うんですけれども、実際にはかなりきついと思います。これは私の持論ですが、10代の時期に読んだ本は身につくんですね。教養になるんです。ところが、大学へ入ってから、あるいは成人してから読んだ本は、知識にはなるけれども、教養にはならないんです。ですから、本はできるだけ10代のうちに読まなくてはいけないと思います。

音読することで読書や勉強が進む

 基本的には言葉、つまり音声言語と聴覚言語は、出るほうに注目するか、入るほうに注目するかの違いですね。今、私はしゃべっていますが、このしゃべった音は、皆さん、ないしは私の耳に入って脳に影響を与えます。そして次の話が出て、またそれが脳に入ってと、ぐるぐる回ります。私はこれが、脳がやっていることの一番基本的な作業だと申し上げたいんです。多くの方が、脳みそ、特に読書というと、入ったきりと思っているんじゃないかと思うんです。つまり、読んで頭の中にどんどんためると。頭が破裂するって感じしませんですか? 私は子どものころ、「本ばかり読んでちゃいけない」としょっちゅう言われました。あれだけ言われたんだから、それには根拠があるはずです。読むとどんどん入るけど、出ていく方はどうなっているんだと、暗黙のうちに促されていたんだろうと思います。

 ですから、子供たちに本を音読させるということを今、改めて始めています。つまり読んで音にする。これをやりますと、子供が本を読むようになるし、それから、いわば勉強するようになるんですね。これは、脳から考えると、全くの当たり前という気がしてくる。なぜかというと、今申し上げたように、音声言語っていうのは、声を出して、その声を自分で聞いているんですわ。出しては聞き、出しては聞きと、こうやって回すことが、脳の根本的な働きです。声に出すことは非常に大事だということです。昔は初等教育の国語の本を「読本」と言いましたもんね。つまりは読み本ですわ。

 僕は、国語の先生が集まった会では、必ず国語は体育だと言うんです。だって筋肉を動かしてますもん。そうでしょ。しゃべるということは、まさにそういうことです。それで、しっかりご理解いただきたいのは、人間が外の世界に対して出すことが出来る、つまりさっき申し上げた出力ですな、出力は筋肉、骨格筋の動き以外にないということです。僕が若いころは筋肉労働とか肉体労働という言葉が、堂々と通ってました。肉体労働でない労働は、実はないんです。

 数学者が物を考えるだけで、最終的にその結果を鉛筆か何かで書いておかないと、誰も認めてくれません。さもなければ、結果を声に出して説明して、誰かに聞いてもらって、わかってもらわなきゃ、やったことになりませんから。我々がやっていることは、根本的に肉を動かしていることです。ところが、教育の世界では普通、筋肉を動かすのは勉強じゃないと思っている。だから、うっかり本を読みなさいとか言ったって駄目ですね。誤解される可能性が非常に高い。大事なことは、その読んだ結果が、どういう形で筋肉の動きになるかということなんです。

役に立たない教養が人生を豊かにする

 教養と知識の違いは、甚だ難しい問題ですが、知識というのは生活に役に立つもの、教養というのは何の役にも立たないものというふうに私は考えています。その何の役にも立たないものが、人生を結構豊かにしてくれるということは、本好きの皆さんだったらお分かりいただけるだろうと思います。雑学も教養のうちと、よく言われますけが、いろいろなことをよく知っている人というのは、それだけで結構畏敬の念を持って見られるということが、私の子供時代からありました。これは学歴ということとまったく関係なしにです。例えば、作家の中でも池波正太郎さんとか出久根達郎さんは、決して学歴のあるほうじゃないんですが、非常にたくさんのことを知っていらっしゃるわけです。それで小説も面白い。これは学問の問題じゃない。そのような形で、活字による勉強が身についてくれば、本当に本物になったなというふうな感じがいたします。

 活字文化が今後どうなっていくかについては、私はあまり明るく考えておりません。というよりも、2000年、20世紀の最後の年ですが、21世紀には作家という職業は成り立たないのではないかと、冗談まじりに言ったことがあります。現に成り立たなくなりつつあります。作家というと赤川次郎さんとか、西村京太郎さん、内田康男さんなどを思い浮かべて、机に座ってサラサラッと書くと大金が転がり込んでくると思う方がいらっしゃるけれども、本当はそんなに甘いものじゃないんです。そういう方はほんの一握りです。左うちわで、作家で食べている人は、よくて10人、甘く見ても20人ぐらいです。あとは、会社の中堅管理職ぐらいの給料というんでしょうか、稼いで、しかも福利厚生もなく頑張っている人が多いわけです(笑)。会社に勤めていれば、いろいろな寮があったり、旅館の割引がありますが、作家というのはそういうのがないんですね。ボーナスもありませんしね。ただ、救いは、作家には定年がないことです。

コレクトすることが知的作業の根源

 約200年前の江戸時代に近藤重蔵という人がいました。蝦夷地の探検で知られていますが実際は大変な学者で、石高の低い旗本の末席の与力から、御書物奉行にまで昇進しています。御書物奉行というのは、今で言うと国会図書館長みたいな職に当たりましょうか。しかしその後、いろいろあって、目黒の別荘の、お隣のお百姓さんとトラブルになり、息子の富蔵という人が、一家7人を切り殺すという大変な事件を起こしてしまいます。結局、お家は改易。富蔵は八丈島に流され、親父の重蔵は大津藩の分部家にお預けとなって座敷牢に入れられ、59歳で病死するという非常に悲惨な生涯を終えます。今お話ししたことは、近藤重蔵を書くために10年間ほどで集めた資料から、かき集めたことですけれども、例えば、そういう一人の人物に焦点を当てて、いろいろなことを調べていくと、その人物だけではなくて、その周辺の情報がたくさん集まってきます。一つの分析を行おうとすれば、そういう資料を集めることが非常に大切なことで、要するに何かをコレクトする行為というのは、知的作業の根本になるんです。

 我々、皆さんもそうだと思いますが、小さいころからいろいろなものを集めますね。例えば切手とか、国鉄の切符とか。集めるのは大体男で、女性はみんな集めませんね。女性が集めるのは実用的なカップとか、役に立つものなんですが、男は何の役にも立たないものを集めます。コレクトして、例えばあるテーマについて80%ぐらい集まったなと感じられた時に、分析が始まるんです。分析をしていくと、一つ一つの断片的な情報がまとまって、一つの人間像なり世界像が出来てくるわけです。こういう作業は、やっぱり活字と結びついてこそ出来るわけです。KJ法(※1)なんて、まさにそうやって活字のパーツをつくってやっていくわけですから、それに匹敵するわけですけれども。

活字の重要性はなくならない

 そういう意味では、いかにパソコンとか映像文化が発達しても、活字の重要性は、絶対になくならないと思います。私が今一番心配しているのは、コンピューター社会になって、要するに途中がないんですね。電子辞書を例にしましょう。電子辞書で、英語でも日本語でもいいんですが、何か言葉を入れますね。入れて、ポンとボタンを押すと、その字がパパッと出てきます。原因を入れると、突然結果が出てきちゃって、我々はその間が全く分からないわけです。計算機も同じです。4けたの数字をワーッと足し算する。昔はそろばんを使ってやったり、暗算でやったりしたわけです。今、ちょっとガシャガシャと押して、プラスボタンをポンと押すと、いきなり答えが出る。簡単に結論が出てくるわけですね。その間に至るまでの思考が、全く訓練されないまま大きくなってしまうという。これは非常に重要な問題です。

20031104_02.jpg 私ぐらいの年になると、そういう訓練を経た上で大人になっていますから、使ってもいいわけです。年をとってくると時間のほうが大事になってきますから、そういう過程を常に学びながらも、時間のない時にはそういうものを使います。でも、小学生とか中学生のころからそれをやり出すと、過程というもの、プロセスが頭にないものだから、どんどん人間はばかになっていきます。ますます本も読まなくなる。これは非常にゆゆしき問題だと思うんです。

 私の認識では、そうやって機械がどんどん台頭してくると、人間は何も出来なくなってくる。例えば自動車なんか、ある程度ズコーッと動いて、ブレーキを踏むと止まるということは、誰でも出来るわけですけれども、自動車を造ってみろとか、壊れたときに直せと言われても直せないわけです。それから、家を建てろと言われたって、家を建てられないわけですね。私は、本箱ぐらいは作りますけれども、それ以上のことは何も出来ない。昔の人は別にプロじゃなくても、家ぐらいは多分建てただろうと思います。だから、そういう意味では、江戸時代の人たちの方が、はるかに利口だったと言ってもいいんじゃないでしょうか。頭の構造がね。まして、今と江戸時代の、社会状況と知識のレベルと比べると、江戸時代のほうが、はるかに知識レベルは高かっただろうと思います。このままだと、どんどん人間が退化していく恐れがある。それをどうと止めるかは、私一人が考えてもだめなもので、多分国家的な政策が何か必要なんじゃないかと思います。

 でも、政治家でそんなことを考えている人は、ほとんどというか、誰もいないんですね。受験戦争はおかしいと思いながら、それを止めようする人もいない。このまま人間は、出来ることをどんどん機械にやられ、余暇にも大したこともせずにごろごろしているだけで、火星人のように頭だけがでかくなって、体が小さくなってくる、恐れがなきにしもあらずですね。

 ここにお集まりの皆さんは大丈夫です。これから後の世代の人は、そういう恐れが十分にあるので、きょう来ている15歳の人もそうですが、電子辞書とか計算機はなるべく使わないようにして、暗算とそろばんで頭を鍛えるように。20歳を過ぎればもう使っていいと思いますけれども。ワープロも同じですね。私も今はもう原稿は全部ワープロですが、小さいころからワープロを使うと、字を覚えなくなりますね。例えば、「イジョウな性格の人」という時、「以上」と出てくると、字面で、この「以上」じゃなくて「異常」だなと分かるんだけれども、さて、漢字で書こうとすると、その「イジョウ」の「ジョウ」がどっちの「ジョウ」だったかなと。状態の「状」だったか、「常」だったのか、その辺が分からなくなってくるんですね。

 そういう意味でも、やっぱり10代の頭の柔軟な時に、そういう知識を集積する方法論を覚えるということが、大変重要だと思います。その一番簡単な方法は読書です。別に私の本だけじゃなくていいんですが、いろいろな人の本を読んでいただきたいんです。本を読むということで、いろいろなことが分かります。例えばスペインに行ったことがない人が、行ったことがあるかのような知識を得ることも出来るわけです。

難解な文章は頭の訓練に

 それから、あんまり簡単な本ばかりを読まないようにしてください。端的に言うと、直木賞はいわゆるエンターテインメントで、芥川賞は純文学と言われていますね。それで、例えば大江健三郎さんが代表するように、文章が非常に難解であったりすることが多いんです。だけど、大江健三郎さんに言わせると、わざと難解な文章を書いているという形跡もあるんです。つまり、スーッと読み流しちゃうと、頭の中に入ってこないんですね。耳で聞くのと一緒で、右から左へ抜けていっちゃう。その時は分かるんですけれども、頭に残らない。だけど、この文脈は一体何を言っているんだろうなと思って、ひっかかりながら読んでいくと、意味が頭に残るんですね。と、大江さんがおっしゃっていました。それが本当かどうか分かりませんけれども(笑)。私は、なるほどなあと思いました。

 最近の芥川賞が、昔に比べるとつまらないという説もあります。だけれども、面白いか面白くないかはともかくとして、文章を一生懸命読むということが、頭の訓練に非常にいいことなんですね。私みたいな活劇小説でドンパチやったり、人が死んだりとかいうのも、面白いことは保証しますけれども、果たして、そういう意味で役に立つかどうかというのは、なかなか難しいものなんです。だから、直木賞も芥川賞も両方読むのが一番いいんです(笑)。きょうの結論はそういうことです(笑)。

 若いころに本を読まないと、定年になってから困ります。先の話で恐縮ですが、仕事だけしていると、定年になった後、何をしていいか分からなくなります。ひところ、濡れ落ち葉なんて言われたりした時代もありますが、老後に自分のやりたいことを見つけておかないと、人生は非常につまらなくなります。私の場合は小説を書くという楽しみが残っていましたから、定年まではいませんでしたが、自分の生きがいを仕事以外に何か求めるということが、これから非常に重要なことになってきます。

 それも、定年間際になってから考えるよりも、私の経験では30歳を過ぎたぐらいに、考えておいたほうが、いいだろうと思います。生涯、自分のライフテーマになることが、そう簡単に見つかるものじゃありません。30歳ぐらいになると会社でもやや時間も出来て、自分のことを考える時間が、少し生まれてくるだろうと思います。そういう時に、自分のやりたいことは何なのかということを考える。そのヒントを得るためにも、読書というのは非常に重要なことだろうと思います。

※1)KJ法
文化人類学者、川喜田二郎氏(元東京工業大学教授)が考案した創造性開発(または創造的問題解決)の技法で、川喜田氏の頭文字をとって<KJ法>と名付けられた。

基調講演「本のある街にて」/堀江 敏幸さん

移せなかった本のある街

20031104_03.jpg 明治大学には、この駿河台と和泉と生田に3つのキャンパスがあります。生田校舎は小田急線の多摩川を越えて、2つ目ぐらいの所にあるんですが、農学部と理工学部が入っていて、学部の場合は1年生から4年生まで、ここで暮らすことになります。僕は明治に移って7、8年になりますが、ずっと生田校舎にいます。先ほど逢坂さんのお話で、神田の歴史をたどっていただきましたが、神田は非常に古い大学街ですね。ここにまだ大学機関が、監獄のように建っているというのはとても大事なことで、ここからもし動いてしまったら、いろいろな不都合が生じます。これは実際的な不都合ではなくて、はた目には役に立たないとしか思えないような不都合なんですね。

 つまり、明治の一部が生田山のほうに移ったとすると、そこで何が起きちゃうかというと。学生の生活に必要なものは、体育館もあれば、運動場もあれば、それから馬場もあるんです。プールもある。それから食堂もある。中に全部揃えてあげたけれども、1つ持っていけなかったものがある。それは街なんですね。だから、先生方の中には、1、2年生の間だけでも、リバティータワーのどこかでいいですから押し込めて、この街の雰囲気を勉強させてやりたかったと、いまだに言う人がいないわけじゃない。公に言うと叱られますから、聞かなかったことにしていただきたいですけれども(笑)。やっぱり、そういう不満はないことはない。それは正しいと思うんです。

 本の街を一緒に運べなかった。しかし、それを育てていくというのは非常に大変なことです。これはやはり蓄積が要るんですね。自分だけ回って、出来るんじゃないんです。そこにいる本屋さんの蓄積、それからそこにいる、ある意味で人々の顔の蓄積とか、それがやはり一番大きい問題だと僕は思うんです。

本屋さんは棚が大事なのだが

 例えば、本屋さんでは今、棚を見るということが出来なくなっています。新刊の本屋だと、ビルの中に入っていたり、あるいはビルの2階ですね。1階から2階に大きなガラス窓があって、本を手にとっている人の姿は見えても、本そのものを見ることが出来ないんです。本というのは、それを触っている姿を含めて、やっぱり背表紙や本の大きさや、どのぐらい平積みになっているかなどという、そういう物理的、視覚的な問題が、かなり大きなウエートを占めていると僕は思います。骨とう屋さんが、歩いていて、ちらっと一目見ただけで、本物か偽者か分かるのに大体10年、20年かかるとよく伺いますが、ちょうどそれと同じで、通りを歩いていて本の姿が見えない本屋さんは、何をしてもやっぱりだめだと思うんですよ。買わなければ、活字文化を推進出来ないんですけれども、買う前段階として、そういう準備が出来るか出来ないかということが、僕はまず大事だと思うんです。それがないんですね。

 そこで何が大事かというと、やっぱり棚なんですよ。中に入るのはちょっと怖いですから、外から見るわけです。ガラス越しにどういう本が置いてあるかということは、その本屋さんの見識と、それから売れ筋を読む力と、自分がいかに本を大事に売っているかという、そういうディスプレーとかいろいろなことが関係している。全集物でも、帯がちゃんと残っている全集が置いてあって、それがしかるべき値段で、もう少し先の本屋さんでは、帯のない全集を同じ値段で売っていた。そうしたら、帯のあるほうを買いますね。あるいは月報が全部ついている。月報というのは、本の間に挟んである、各本の執筆者のおまけのメッセージなんですが、それがあるのとないのとでは値段が違ったりします。 そういう情報をストックしておくんですね。どこそこにはこの全集があった。これは汚れているし、まだ新刊で、三省堂の1階奥に少し全集が置いてあって、そこに残っていたはずだ。まだあれば、そちらで買うということを、要するにどこで何を仕入れたらいいか、それから、本の汚れぐあいとか、姿、形をインプットしておく。それが、今の学生にはできない。

 日本でも神田のように、こんなに恵まれたところは少なくて、結局、本屋さんを並べてつくるような街づくりをしていない。これは政治の話になって、僕の範疇(はんちゅう)じゃないんですけれども、でも、それを本当に強く思うんです。それに輪をかけてというか、ある確証を持ったのがフランスへの留学時です。パリでも状況は同じなんですね。大学がある中心部にしか、いい本屋はないんです。ソルボンヌ大学のある近辺に、学生と教師とその街全体がつくった本屋さんを、大事にする空間が残っていて、要するに財産がそれなんです。本を読めというんじゃなくて、本を読ませるような環境が揃っているかどうかということなんですね。例えば、神田であれば、たくさん本を買っても、喫茶店があって休める。お腹がすけば、裏通りで食事をして腹を満たしてから、また本を買いに行けるというゆとりがあるわけです。ところが、よい本屋さんがポーンとあっても、本屋と本屋を比べるような距離感で本屋がないと、つまり、30分ぐらい歩かないとよい本屋がないというような所はちょっと困るんですね。

 だから、大学のある近辺には、和泉なんかもそうですけれども、もう少し本屋が集まって欲しい。では、本屋を集めるというのは、誰がやったらいいのかというと、これはやっぱり無言の圧力しかないんです。無言の圧力というのは、我々みんなが、そこに本屋さんがあって欲しいというふうに、思わなくちゃしようがないんですね。そのためにも、いろいろな本屋を歩いて、本を買う前に本屋の前を通るという習慣をつけたほうがいい。

図書館じゃなくて読書館を

 そのためにも、本の背表紙だけ見る練習をするラーメン博物館のような場所を設けてもいいし、図書館じゃなくて読書館というのをつくったらどうかと、最近僕は感じているんです。自分で本を1冊持ち込んで、そこで1日読む。お茶を頼まないといけないとかいうのじゃなくて、1冊の本を持ってブラッと入って、そこで強制的にというよりは、みんな本を読んでいて、話し声もないところで、寝ころがってもいいし、どこでもいい。そういうところがあればいいんじゃないかなと思うんです。これには、さっきまで言った話が、前段階としてあるんですね。どういう本を持ってきたらいいかということは、個々人でやらないといけないし、読書館に持ってくる本というのも、考えて選ぶということになりますと、やっぱり本の街をつくるというのが一番大きい課題なんだと思います。

 フランスの話に戻りますが、先ほどの本屋さんの集まっている街が、やっぱり危機的な状況にあって、CD―ROMやパソコンを扱っている大書店に飲み込まれ、太刀打ちできない本屋さんがどんどんつぶれている。文芸書を扱っている所が消えていくというのは、全フランス的な問題で、これは日本とよく似ています。小さくても店主が、作家と読者の交流を図る場を熱心に設けたり、会員制のカードを作ってわずかでも割り引くなどの努力をしているところは残っていますが、よく見ると、残っている本屋さんの配置というか、位置は、やっぱり今言ったように、文教地区というかな、大学があるなしにかかわらず、街として活気があって、その一部に本屋さんがあるという所です。

 ですから、この後、古本まつりに行って、出来れば買って欲しいですけれども、買わなくても、どの古本屋さんの均一棚の質がよかったか、同じ100円でもここはレベルが違うな、ということが分かるぐらいになっていただけたらと思います。先ほどの逢坂さんの言葉をくみ取れば、その蓄積を流して欲しいんです。明大の坂を降りて、一番手前にいい本があったぞということを誰かに言えばいいんです。どういう本があるということを言えば、もっといいんですけれども。あそこの店まで歩いたということは、そこまで行けば、おいしいコーヒーが飲めるんだ、そういう情報をどんどん話して欲しい。そして、それを自分の街に持ち帰って、ここに本屋があったらいいなという怨念を、街中に広めて欲しいと思います。それは多分、活字パワーの一番の源になると思います。

(2003/11/04)

逢坂剛(おうさか・ごう)
東京・文京区生まれ。博報堂入社後に発表した「百舌の叫ぶ夜」で直木賞候補。1987年に「カディスの赤い星」で直木賞、日本推理作家協会賞など受賞。現在、日本推理作家協会理事長、江戸川乱歩展実行委員会会長。
堀江敏幸(ほりえ・としゆき)
岐阜県生まれ。パリ留学後、明治大に。1995年「郊外へ」で作家デビュー。「おぱらばん」で三島由紀夫賞、2001年「熊の敷石」で芥川賞、03年「スタンス・ドット」で川端康成文学賞を受賞。

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