21世紀活字文化プロジェクト

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活字文化公開講座

2004/05/30

日本大学の活字文化公開講座に450人が参加

■出演
奥泉光さん(作家)
梶川信行さん(日本大教授)

 読売新聞が提唱する「21世紀活字文化プロジェクト」の一環である「活字文化公開講座」(活字文化推進会議、日本大学主催)が5月29日、東京都千代田区の日本大学会館大講堂で開かれ、約450人の参加者は熱心に聴き入り、メモを取るなどしていた。

 芥川賞作家で近畿大教授の奥泉光さんは「読むことの創造性」と題して講演。読書の魅力について、「インクのシミに過ぎない本から、一人ひとりがいろんな世界を創造すること」と語った。奥泉さんは「紙についたインクのシミから様々な世界を作り上げるわけで、すごい創造性の発揮だ」と語り、「この点で小説は作家と読者の合作と言える」と持論を展開。日常会話で英語が増える傾向にあることに危機感を示し、「日本語の力が低下すると、表現の多様性を失う。日本語を鍛えていかなければならない」と述べた。

 また、万葉集研究で知られる日本大教授の梶川信行さんは、「古典を身近なものに」と題して講演。若者が古典に関心を示さない現状を説明した上で、「文法に偏りがちな今の古典教育は問題。作品を現代語で読んで興味を持った後で、古典を学ぶようにすれば」と提案した。「古典は高尚なものとのイメージがあるが、楽しく、ばかげた作品もあるということを知り、身近に感じてほしい」と訴えた。

 この後の質疑応答で「言葉に対する思い」を聞かれ、奥泉さんは「異質な者同士が言葉を通じて世界を共有することは楽しいこと」と話し、梶川さんは「語彙(ごい)の豊富さがその人の個性。できるだけ本を読んで」と呼びかけた。

基調講演「本を読み、親しむ楽しさ」/奥泉光さん

読むことの創造性

20040530_01.jpg 読むというのはどういうことか考えたい。本は、物として考えた場合、紙についたインクのしみに過ぎない。日本語を習得した人間にとっては有意義だが、日本語のできない人には、インクのしみとしか言いようがない。そう考えると、我々はインクのしみから一人ひとりの世界をつくり上げていることになる。

 夏目漱石の代表作「坊ちゃん」について、みんな「おもしろい」という。しかし、よく考えると、私が読んだ「坊ちゃん」と、誰かが呼んだ「坊ちゃん」は同じではない。全く同じことを読み取るというのはあり得ないわけで、「坊ちゃん」は読者の数だけあるということになる。そういった点で、小説は作者と読者の合作である。

 実は、小説を書くことと読むこととは、それほど変わらない。少なくとも創造性の質は同じだ。読むということは、大変難しいことであるし、大きな創造性を引き起こす営みでもある。

20040530_02.jpg ところで、我々はインクのしみを解説するためにコードという一種の暗号を持っている。例えば、「光」という文字。これをヒカリとか、ヒカルとなぜ読めるのか。この字の形をヒカリと認識するコードを持っているからだ。コードは自然に身についたように思われがちだが、日本という文化圏に生まれ育ち、教育を受ける中で蓄積してきたもので、コードの蓄積は文化的な財産ということができる。

 例えば、「古池や 蛙飛びこむ 水の音」という芭蕉の句。音声で聞くと、無意識のうちにコードを働かせてイメージを作る。この句から蛙が池に何匹いるのか想像すると、ほとんどの人は一匹と答えるだろう。

 教わった記憶もないのに、我々はなぜ一匹とわかるのだろうか。これが文化的コードで、我々は、大変な蓄積の果てにインクのしみから世界をつくり上げることができるようになったのだ。 

20040530_03.jpg 日本語は今、ピンチだと思う。英語が国際的な言語として定着し、最近では、小学校のうちから英語を学習しようという動きもある。しかし、母国語で思考できないのに、外国語を教わってもしようがない。日本ではこれまで、高等教育も全部、日本語で行ってきた。その中には西洋哲学も含まれる。それが可能なのは、抽象的な思考をしうるだけの力が日本語にあるからだ。実際に、多くの国々が高等教育を英語でやっている。母国語ではできないからだ。

 それでも、英語ができなければしようがない時代が来るだろう。そのときにどうするかを考えなければならない。日本語は鍛えなければ消滅する。抽象的な思考ができるのは日本語に力があるからで、放っておけば維持できない。英語が増えて、日本語が使われなくなる傾向にあるが、日本語の力は弱まっていく。

 言葉を人工的なものと認識し、日本語の創造性を鍛えるとともに、表現の可能性を大きくしていかないと、いつかは古びれ、現実に対応できなくなってしまうだろう。

基調講演「古典を身近なものに」/梶川信行さん

20040530_04.jpg 「万葉集」の講座が各地で盛況だが、参加者は60、70代と高い年齢層の人が圧倒的で、若者は少ない。

 入試で古典を選ぶ学生は多いのだが、それは現代文より学習効果が表れやすいからだ。若者が方便として古典を選び、社会人になると忙しいから古典にかまう暇はない。子育てが終わったり、定年になったりすると、古典でも学ぼうかとなる。真ん中は空洞だ。

 近年、法隆寺や屋久島が世界遺産に登録されたが、ここに集まる観光客は仏像を見て心の安らぎを覚えたり、美しい自然を楽しんだりするだけで満足する。古典も同様に、まず楽しむことから出発すべきだ。

 ところが、高校の授業はそれとは最も遠いところにある。品詞に分解して古語辞典を引き、文法的な説明を受けてから現代語訳するのが中心だ。東大寺を拝観する場合、観光客は大仏殿の中で荘厳な雰囲気に浸っていればいいわけで、柱は何本だとか、瓦一枚の重さなどは知らなくてもかまわない。

 そう考えると、文法に偏りがちな古典の学習指導要領は大幅な改訂が必要だと思う。せめて必修科目の文語文法は全部やめて、現代語訳されたものを次々に読ませ、興味を持った子だけが原文で勉強すればいいのではないか。

 一方で、研究者の間では、我々の感性や常識では「万葉集」は読めないというのが共通認識だ。「万葉集」を読むということは、常に異文化を理解する困難さに立ち向かうことである。現代は防犯の意味もあって夜の町が大変明るくなり、夜は暗く怖いものという素朴な感情が薄れつつある。自分たちが、非常に特殊な環境の中で生きているのだという自覚を持たないと、古典はおろか近代文学でさえ理解できないと学生たちには話している。

 古典の場合には体験型の学習が有効だと思う。数年前、伊勢神宮の神嘗(かんなめ)祭に学生たちを連れて行った。月もなく、内宮の境内はうっそうとした木々に覆われていた。漆黒の闇の中で、祭主と神官が神殿の神様に食事をお供えする様子を見て、神の存在を素直に信じる気持ちになれた。このように、教室の外で五感を刺激し、神々の存在を身近に感じることが、「万葉集」や「古事記」のような文学を理解する上で非常に重要な要素の一つだ。

 毎年夏には、ゼミの学生を奈良に連れて行く。飛鳥と呼ばれる地域がどの程度の広さで、香具山の高さがどの程度なのか。実際に歩いてみることで、活字の向こう側の広がりまで理解することができる。書物を通じてばかりではなく、体を使って、全身を使って古典を理解するようにしてほしい。

 古代の人がどのように自然を見て、どんな神をイメージしてきたのか。皆さんもぜひ一度、古代の人々と同じように自然の中に宿る神々に。そうすることで、今までと違った形で自然が見えてくるばかりでなく、古典で描かれている人たちの気持ちや、表現されていることに、一歩近づけるのではないかと思う。

質疑応答

――影響を受けた本と作家を教えてほしい。

20040530_05.jpg【奥泉】 夏目漱石です。特に「吾輩は猫である」が好きで、最初に読んだのは小学6年生。中学1年から3年まで読書感想文はずっと「我輩は猫」だった。

【梶川】 本を読むのが嫌いでなかったこともあり、大学の国文学科に入った。たまたま「万葉集」の授業が面白く、奈良に行ったのがきっかけで「万葉集」にのめりこんだ。

――パソコンや携帯電話の普及で縦書き文化から横書き文化に変わりつつあることをどう考えているか。

【奥泉】 今ある表現の形態や字体が絶対であるということは全くない。縦書きが絶対とも思わないし、横書きでなければとも思わない。そういう変化は今後も当然起こってくると思う。

【梶川】 「万葉集」を書くのは縦書きだと思われるだろうが、実は学会でも横書きが容認されるようになってきた。内容によって、縦でも、横でも使いやすいほうでいいと思う。

――活字文化、言葉に対する思いを聞かせてほしい。

【奥泉】 人間は言葉を通じて世界を理解し、また、世界を創造していく。異質な者同士で世界を共有する時に介在するのは、言葉だ。豊かな、おもしろい世界を言葉を介在させてつくっていこうはありませんか。

【梶川】 語彙の総体がその人の個性になると思う。ぜひ国文学科に入り、様々な文献から語彙を増やしてほしい。できるだけ本は読みましょう。

(2004/06/25)

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