21世紀活字文化プロジェクト

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活字文化公開講座

2004/06/03

島田雅彦さんが講演「本音分かる、誘惑と挑発」〜活字文化公開講座、西南学院大学で開催

■出演
島田雅彦さん(作家)
北垣徹さん(西南学院大助教授)

 読売新聞社が提唱する「21世紀活字文化プロジェクト」の1事業「活字文化公開講座」(主催・活字文化推進会議、西南学院大)が5月22日、福岡市の西南学院大ランキンチャペルで開かれ、学生から社会人まで約500人が詰めかけた。

 作家の島田雅彦さんは「誘惑の言葉」と題した基調講演で、太古から続く人の営みと交わりを、「誘惑」と「言葉」をキーワードに解き明かした。西南学院大文学部の北垣徹・助教授は、言語の起源について、ルソー、ニーチェ、ダーウィンら西洋の思想家、科学者が深い関心を示したことをコメント。聴講者から寄せられた質問を手がかりに、北垣助教授が島田さんの創作活動の根源に迫る対談もあり、会場をわかせた。講座の一部を紹介する。

 参加者からは「言葉のやり取りでのトラブルはあるか」との質問があり、島田さんは「挑発してみることは、相手の本音を引き出すことにもつながる」とユーモアたっぷりに応じた。

 聴講した福岡市南区の主婦高山和代さん(57)は「島田さんの幅広く、多彩な世界を垣間見ることができた。自身の活字離れを反省しており、早速、本を手にしたい」と話していた。

基調講演「太古とつながる未来」/島田雅彦さん

20040603_01.jpg 快楽や生きていて良かったということ全般をエロスと見なせば、それに対応する形で、死にそうな目に遭うとか、ひどい目に遭うとか、生存にとって不利なことを要求してしまうのが人間だ。それがいつも対抗し合うというのが、人が生きるということではないか。

 まるで起源の分からない謎の言語もあるが、言語は情報の交換であると共に、その言語に根付いている習慣とか情感の交換ということも行える。いくら、文化や言語が違っても、同じ人間であるが故に、快、不快とか喜怒哀楽とかはある程度まで共有されている。そうしたものをベースにすれば、たとえ言葉は通じなくても、かなりのレベルでコミュニケーションすることは可能だと考える。

20040603_02.jpg 太古の昔から、相手が何を考えているか分からない場合、殺されて食べられてしまうかも知れないという恐怖を伴いながらも、人間はコミュニケーションを求めてきた。他者というのは1つの自然で、森を切り開き、田んぼを作り、川に堤防を造って、安心に住めるように営んできたのと同じように、言葉で話しかけるとか、相手が欲しいものをあげるとかもらうとか、そういうことで恐怖感を取り除き、互いの理解の範囲に近づけ、伝達の方法を生み出してきた。

 情報社会や管理社会というのも、そうした自然の人工化を目指した結果なので、コミュニケーションの原則はここ2万年変わっていない。それなら、太古の人々がどのように人とのコミュニケーションを図ってきたかと考えることは、コミュニケーションの未来を考えることにつながると思う。

基調講演「言葉は行為」20世紀に定着/北垣徹さん

 言葉というのは単なる情報の交換ではなく、言葉に根付いた感情の交換だ、という島田さんの考えが、ヨーロッパではどういう風に出てきたのか話したい。

 言葉の起源を問い始めたのは18世紀の啓蒙(けいもう)思想の時代からで、そんなに古くはない。それまでは言語神授説で、全能の神によってあらかじめ与えられたという考えが支配的だった。有名なのはルソーの「言語起源論」で、「人間の最初の話し言葉は、幾何学者、数学者の言葉ではなく、詩人の言葉だ」とし、言語と音楽の起源は同じだとも主張した。

 言葉は事物を客観的に映し出す鏡という考えに対し、哲学者のニーチェや生物・博物学者のダーウィン、精神分析学者のフロイトなどは、それぞれの立場から、言葉は単なる記号ではなく、感情や情動を伴うもの、と唱えた。そうした思想を経て、言葉は実践であり、ある行為を形成するんだという考え方が、20世紀になってからほぼ定着した。

対談

信仰と救い

20040603_04.jpg【北垣】 島田さんは、「世のため人のために役立つ文学を書くんだ」と言っておられるが、額面どおりに受け取っていいかどうかわからない。例えば「救い」というテーマを強く意識して書いていますか。

【島田】 信仰を、救われるからとか、癒やされるからとか、そういう理由で行うのは間違っていると思う。神は自分にだけ優しいのではなく世の中全般に優しい。ということは自分の敵に対しても優しい。救われると思って信仰しても、きっと裏切られる。だからそのような心得の者は信仰するべきではない。埴谷雄高のいう「不合理ゆえに吾信ず」。それが信仰だと思うんです。

【北垣】 「どんな誘惑の言葉に弱いですか」といった質問が女性からたくさん来ています。

【島田】 シンプルな言葉がいいですね。「休んでいって」と言われたら、「あ、そう」。あるいは「これ食べてって」と言われたら、「食べていこうかな」みたいな。「いいのよ、あなたの代わりはいくらでもいるから」なんて言われたら、切ないかもしれない。

【北垣】 誘惑の言葉によって舌禍事件というか、トラブルになったことはありますか?

【島田】 同じ言葉でも受け取る相手によって全然印象が変わってくるということがある。ある人にはそれが救いの言葉だが、ある人には大変な侮辱に受け取られるかもしれない。その一方、こういうことも考えられる。相手を怒らせること。怒りという感情はその人を饒舌(じょうぜつ)にするし、本領を垣間見るには便利なんです。

【北垣】 挑発ですね?

【島田】 挑発です。上品に構えていた人も、「負けるか!」と思うかもしれないし、怒ったとたんに、本音がバッと出ることがある。1回怒らしてみるとその人の本音がわかるという意味では、挑発もコミュニケーションの方法。入り方としてはいいんじゃないですかね。

【北垣】 誘惑、挑発の言葉。どちらも得意なんですか?

【島田】 最近はできるだけ謙虚に生きていきたいなあと思っているんですけど。人は言葉の中の論理よりも、その言葉に付いている感情の方に反応することが多いと思うんです。だから同じ言葉でも丁寧に言うとか、にこやかに言うとか、ポジティブな感情で語った設定の方が通りやすいということはあります。ぶっきらぼうやヒステリックに言うと、拒否反応が出るので、その辺は気をつけなければならない。

詩の情緒感

20040603_05.jpg【北垣】 70歳の男性から「活字によって誘惑は可能か」という質問です。

【島田】 読書の一般的な方法は黙読ですよね。紙に印刷された文字を黙って読む。しかし、19世紀のヨーロッパではもう1つの読書の方法として朗読というものがあった。ドストエフスキーが生きていた時代はみんな文学サロンに集まってきて、作者自身の朗読で読んでいた。ドストエフスキーの小説も大半が対話で、読み聞かせるということを前提に書いています。日本ではあまり朗読ということが作家たちの間では行われていなかったので、僕が十数年前からしているんです。

【北垣】 口述筆記の小説も当時はかなりありましたね。

【島田】 活字というのは冷たいし、感情がない。でも、声色とかリズムを乗せるととたんにすごくニュアンスに富んでくる。発音すると音程感が出てどの言葉にも音符がついているようで。だから朗読は歌なんです。

【北垣】 「なぜ詩を書き始めたのか」という質問です。「詩のボクシングが好き」という方もおられますね。

【島田】 詩っていうのは、小説をずっと書いてきた身からしますと、大変経済的で、少ない音節で確実に人の感情を揺さぶることができます。さらに、紙に書くだけでなくて朗読する、ひいては歌う。そうするともっと情緒感が出る。人の魂をガッとわしづかみにするには、小説をだらだら書いているよりは詩を書いて呪文(じゅもん)のように使った方が得かもしれない。カラオケボックスを通じて流通させれば、詩も捨てたもんじゃない。

文学の本質

20040603_03.jpg【北垣】 文学の本質を突く質問が72歳女性から。「小説と物語の本質的差異はどこにあるのですか」

【島田】 オーソドックスな文学史に従うと、小説というジャンルのパイオニアはセルバンデスの「ドン・キホーテ」で、当時はやっていた騎士道物語に対するパロディーという説ですが、私は好きじゃない。小説も物語も詩も、あるいは戯曲も、基本的には人の理解の仕方、快楽、驚きとかにこたえるジャンルだとすれば、皆同じ。現在書かれているどんな物語も小説も起源をさかのぼっていくと、ギリシャ悲劇のオイディプス王にあるといっても過言ではない。

 ミステリーの元祖も「オイディプス王」だと思うんです。人気テーマの近親相姦(そうかん)と父殺しの両方が入っており、犯人探しをする話でもある。そして最後に、真犯人はまぎれもなく自分(オイディプス王)自身だったというオチがついていて、みんな驚くどんでん返しも入っている。探偵小説は、殺人という結果から様々な証拠を探し出し手がかりをつかんで、犯人にたどりつく、あるいはその動機を探るという意味では、数学の帰納法ですね。ギリシャというのはそういう証明の方法にとりつかれていて、帰納法とか演繹(えんえき)法を生み出した。数学の証明法の誕生とギリシャ悲劇の構造は対応する。僕は、文学は1番数学に遠いと思ってやってきたのに、ギリシャにおいては数学と文学は起源が同じなんじゃないかと、最近気付いたんです。

【北垣】 大変面白い説だと思います。島田さんは法政大学で教鞭(きょうべん)をとり、オペラや詩も書き、文芸批評家でもある。このような活動は今の文学の状況から出てくる必然性なのでしょうか。

職業の終着点

20040603_07.jpg【島田】 最近のベストセラーの1つ「13歳のハローワーク」の中で、小説家というのはあらゆる職業の終着点である、と村上龍が言っていますが、私もそう思います。小説家の職歴は、教師もいれば新聞記者、編集者、銀座のホステス、キャバクラ嬢、あるいはスチュワーデス、弁護士、医者、傭兵(ようへい)なんていうのもいるし、漁師とかホームレスとか、本当に多種多様なんです。小生の場合は、この間の芥川賞の2ガールズと一緒で、他の職業につかずにいきなり書き始めてしまい、その意味じゃ、華麗な職歴がないんですね。最初にあらゆる職業の終着点から始めてしまった負い目っていうのがあって、それでいろいろ手を出したがるんじゃないでしょうかね。

【北垣】 これから全く違う職業に就くことを考えていますか。

【島田】 うーん、どうでしょう。料理は好きなんですけど。本当に小説家でどうにもならなくなったらどうしようという不安はありますよね、年金払ってないし。

【北垣】 21世紀の純文学の可能性については?

【島田】 それこそ、筆を包丁に持ち替えることができるようにしていかなくてはいけない。というのは、僕は文豪の先生と違って、純文学の永遠とかをそんなに信じることができないんですよ。そういうことを言う人に限ってつまんないものを書いているんです。

【北垣】 「純」文学と言いますが、19世紀の小説というのは実は雑学、風俗を描くということですから、「純」という言葉には抵抗がありますね。不純文学こそ文学だという説も成り立つと思います。そろそろ時間も迫っておりますので、この辺で。

(2004/06/03)

島田雅彦(しまだ・まさひこ)
1961年、東京都出身。東京外語大在学中に発表した「優しいサヨクのための嬉遊曲」が芥川賞候補になり、文壇デビュー。「夢遊王国のための音楽」で野間文芸新人賞、「彼岸先生」で泉鏡花文学賞受賞。近著に「彗星の住人」「美しい魂」「エトロフの恋」の無限カノン3部作など。詩作、朗読、オペラ台本作家、「ひなびたごちそう 島田雅彦の料理」を出すなど文壇きっての料理通としても知られる。近畿大助教授を経て法政大国際文化学部教授。
北垣徹(きたがき・とおる)
1967年、兵庫県出身。京都大卒。京都大大学院博士課程とパリ社会科学高等研究院社会学DEA課程修了。2003年4月から現職。専門は社会学、社会思想史で、フランス史、フランス文明論などの授業を担当している。 

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