21世紀活字文化プロジェクト

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読書教養講座

2007/07/11

「小説の企み 読書の企み 平野ワールドへの扉」

■出演
平野啓一郎さん(作家)
新谷秀明さん(西南学院大学国際文化学部教授)

 読書教養講座「快読!怪読!」(主催・活字文化推進会議・西南学院大学、主管・読売新聞社)の公開授業が6月2日、福岡市の西南学院大学で開催され、読書家として知られる俳優の児玉清さんが「本棚の隙間から世界を覗(のぞ)く」と題し、本の世界から紡ぎ出される感動と喜びについて話しました。また6月26日の授業には、芥川賞作家の平野啓一郎さんを招いきました。

 いずれも読売新聞社が進めている21世紀活字文化プロジェクトの一環で、読書の楽しさを知り、コミュニケーションの力を高めるために大学と共同で行っている正規授業「読書教養講座」の一環として開催されました。今年度は3年目にあたります。コーディネーターは同大学国際文化学部の新谷秀明教授がつとめました。

西南学院大学 読書教養講座 一般公開授業

読み方で楽しさいろいろ 小説は言葉で世界刻むもの

20070711b_01.jpg 若者たちの活字離れが指摘され、出版界も不況が続いている。景気は回復しているのに、小説が売れない。音楽の世界でも、例えば200万、300万枚と売れる曲があるかと思えば、有名なミュージシャンのものでも何千枚かしか売れない。純文学でも同じような状態で、1万部売れれば御の字で、2000とか3000部ではかなり厳しい。

 考えてみれば、それも当然かも知れない。日常生活を円グラフにすれば、睡眠や仕事、食事といった、どうしても必要な時間を除くと、余暇の時間は限られている。その時間を使うのが読書で、かつては小説くらいしかなかった。ある意味で小説が読まれたのは必然だった。

 しかし、今は違う。テレビがあるし、パソコンもある。限られた時間を小説だけで過ごすことはない。さまざまな形で時間が使われ、小説離れは仕方がないことかも知れない。

 だが、それは活字離れとは異なる。活字にふれる機会は20年前に比べると比較にならないほど増えている。インターネットにしても、メールにしても、ブログにしても、1日に読み書きする活字は膨大なものだ。かつては活字に対しては、それを受け取る側に「あがめたてまつる」といった感覚があったのではないか。活字を提供する側もそうかも知れない。しかし、今、誰もが簡単に不特定多数の人々に情報を発信できる時代になり、活字に対する信仰がなくなっている。

 「分かる」ということはどういうことか。「判る」とも「解かる」とも書くが、根本的な意味は「分かる」ということだろう。目の前に広がる世界は、そのままの存在としては「分からない」。それを言葉で「分かつ」ことによって、言葉で整理することによって、理解できる。

  例えば、アメフトや格闘技の試合を見たとする。ルールが分からなければ、ただ球を奪い合っているだけだし、男たちが肉体をぶつけ合っているだけだ。しかし、ルールを知り、男たちがやっている意味を「分かる」ことによって、興味深く試合を見ることができる。言葉で世界を切り刻むことが「分かる」ということだ。

  ところが、この言葉というものが誠にやっかいだ。どんな作家でも、小説は言葉でしか表現できないが、この言葉というものは結局のところ、誰かが作ったもので、借り物でしかない。多くの人々が理解するためには、すでに存在する言葉を使うしかない。自分のものではない言葉を借りてきて書くしかない。

  時代によっても、意味が異なってくる。「をかし」「あわれ」といった言葉は、昔とは随分意味が変わってきている。場所によっても異なる。あるコミュニティー(共同体)に属する人々にしか通じない言葉がある。例えば「友達」という言葉にしても、「ちょっとした知り合い」という意味で使うかも知れないし、「心を許しあった本当の親友」と受け止めるかも知れない。人によってずいぶん違うはずだ。

  小説は、言葉で世界を切り刻んで読んでもらうものであるが、その言葉自体が「揺らぐもの」だ。不確かなものであることは間違いない。

  小説は、自分とは何か、世の中とはということを考え、それに言葉を与えるジャンルだと思う。

  ドストエフスキーの小説の中にはさまざまな人物が登場する。社会や秩序を否定するニヒリスト、極端な思考をする宗教家、卑劣で嫌みな人間など、いろんな人間がいる。それはいずれも、ドストエフスキーの分身とも言える。自分自身の中のさまざまな価値観を表したものだ。

  だから、読み手としては二つの楽しみ方ができる。一つは、その小説の主人公になって、物語の中で自分の生き方として読むことだ。もう一つは、作家がどうしてこの物語を書こうとしたかを考えながら読むことだ。

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 考えてみれば、コミュニケーションが成り立つことは不思議なことだ。作家が、あるメッセージを読者に届けようとしたとしても、それぞれ異なった人格を持った読者は一人一人が異なった理解をするだろう。作家と読者のコミュニケーションが成り立つのは奇跡と言っていいのではないか。

 その意味で読者が言葉を理解するのは、「ある種の根気強さ」も必要かも知れない。読書について最も言いたいことは、一つの作品に対して、いくつものアプローチの方法があり、さまざまな読み方を楽しむことができる、ということだ。

対談

硬直化何とかしたい

【新谷】 さまざまな実験に挑戦しておられます。最近、短編も多いですね。例えば、「女の部屋」という小説は——小説というよりもアートという感じなのですが——文章とは無関係な空白が出現し、それがページをめくるごとに様々な形に変化していきます。読者は小説の内容よりもまずその外観に目を奪われてしまいます。これなどある意味で小説の概念を超えているという印象を受けました。

【平野】 現代は社会構造も、小説の構造も、硬直化していると思う。その硬直化を何とかしたいという思いですね。これらの作品について、「既視感がある」と批判する人がいます。どこかで読んだ感じがするという意味ですね。しかし、「では、どこで、どんな作品ですか」と聞くと答えられない。実験的な創造、試みに対する反感というか、思考停止に陥ってしまうのではないかと思いますね。

【新谷】 確かに、創造がなければ小説家としては寂しいですね。

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【平野】 建築家はさまざまな建物を創造します。ただ、どうしても逃れることのできないものがあります。それは重力という制約です。どんな建築家でも、重力を無視した建物はできません。しかし、材料や工法が進歩することによって、かつてないような建物を造ることができます。

  小説にも、どうしても「暴力的に作用するシステム」があります。それは、まず文法です。文法を無視しては読者に意味を伝えることはできません。さらに、文章を時系列的に書くということ。書く順番を反対からと言うわけにはいかない。その宿命を背負っているとしても、創造することをやめたら、どうしようもなく保守的になってしまいます。

(2007/07/11)

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)
1975年愛知県蒲郡市生まれ。2歳から18歳まで母親の実家があった福岡県北九州市で過ごす。福岡県立東筑高校卒。京都大学法学部在学中に文芸誌「新潮」に投稿した「日蝕」が巻頭掲載され、99年に同作品で芥川賞を最年少(当時)受賞。2002年に2500枚の長編「葬送」や「一月物語」「文明の憂鬱」など話題作を刊行。IT社会を分析した「ウェブ人間論」(共著)や「本の読み方 スローリーディングの実践」など、多角的な活動が注目されている。 

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