第19回「ミステリーと私」

〜基調講演〜 大沢 在昌さん 「ミステリーと私」

「妥協は嫌」一貫した主人公像

ミステリーには「名探偵」が登場します。時代とともに変わっていきますが、シャーロック・ホームズがいて、エルキュール・ポアロがいて金田一耕助がいた。私はこのような名探偵が登場するミステリーが大好きです。
 
 でも、私がミステリーを書くようになった動機は、実はこの名探偵から自分が離れていったことにあります。ある作品との出会いで、ミステリーに対する考え方がガラリと変わってしまったのです。
 
 その作品は、アメリカの作家、ウィリアム・マッギヴァーンの「最悪のとき」です。この小説に名探偵は登場しません。主人公は刑事ですが、彼が勤める警察は腐敗していて、ギャングによって完全に支配されている。市長も警察署長もギャングの一味です。
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 その中で犯罪を摘発しようとすることが彼を孤独に追いやり、警察の中ですら孤立してしまう。彼は警察をやめ、たった一人で犯罪組織と対峙(たいじ)する決心を固めるのですが、家族すら命を狙われるという状況に追い込まれます。
 
 こんな孤立したつらい、いつ殺されてしまうか分からない状況の中でも、犯罪を暴こうという主人公がいる。初めて読んで私は胸が震えました。
 
 これが、「ハードボイルド」というジャンルの小説だと知り、私の傾斜が始まりました。レイモンド・チャンドラーや、ダシール・ハメットを読み、日本のものもたくさん読みました。そして、自分も書こうと決心したのです。
 
 ハードボイルドというのは大変な誤解を受けています。銃がバンバン撃ち合われて、人がいっぱい死んで、残酷なシーンがたくさんあるんじゃないかと。確かにそういうシーンはあります。しかし、書きたいのは決して残酷シーンではないのです。
 
 厳しい状況の中で、自分のルールを持って、たった独り意志を貫き、傷つけられる恐怖、何かを失う恐怖と戦いながらまい進していく――私の描く小説の主人公たちは「妥協して一生後悔するのは嫌だ」と思う人間たちです。心の弱さも恐怖感も持っている。しかし妥協せず戦いを選ぶ。それがハードボイルド小説だと私は思っています。
 
 私が『新宿鮫』を書いたのは34歳の時。デビュー11年目でしたが、その間書いても書いても全く売れませんでした。『新宿鮫』は29冊目の本です。それまでの28冊はすべて初版、つまり1回刷ったきり。ファンは500人もいなかったでしょう。
 
 こんな状況を打破しようと、1年半、他の仕事を全部断って、その時の自分が書きうる最高のハードボイルド小説だという作品を書き上げました。それを世に問うたわけです。せめて重版されればいい。受賞しなくても何かの文学賞の候補になればという思いでした。『氷の森』という作品ですが、なんの反応もなかった。
 
 私はこの時、ぐれてしまったんです。全力を傾けた作品が世の中から評価されず、「もういい、難しいことを書くのはやめよう。作者が気持ちの良い小説を書こう」と。主人公は刑事の鮫島。恋人はロックシンガー。新宿署に勤めているからタイトルは『新宿鮫』。編集者は「そんなタイトルですか」とすごく引いたのですが、なぜか売れた。不思議でした。
 
 『新宿鮫』は翌年、日本推理作家協会賞と吉川英治文学新人賞を取りますが、受賞前に10万部近く売れていました。信じられなかった。何が起こったんだろうと思いました。考えられる理由はひとつ。お客さん同士の「おもしろい」という口コミでした。
 
 ゲストにお招きした道尾さんは34歳。私とはほぼ20年の隔たりがあります。ちょうど私が『新宿鮫』を書きだした年齢であり、あの頃の僕のように、若くて輝いている。そのイキがいい売れている作家から人気の秘密を盗み出すことが、きょうの私の狙いです。

〜トークショー〜 大沢 在昌さん&道尾 秀介さん
「活字の力に魅せられ 物語の面白さに興奮」

読書少ない世代

【大沢】 今のミステリー界、新しい作家が次々とデビューしますが、ほとんどが40歳代。34歳というのは本当に若い。

【道尾】 作家も少ないですが、僕らの世代は読書人口自体が少ないと思います。学生の時にパソコンや携帯電話が出始めて、そっちに飛びつく人が多かったですから。

【大沢】 10代、20代の若い人は最近、本を読むようになってきています。道尾さんの世代が、一番本から遠い青春時代を送ってきたのかな。中学、高校時代に、本をたくさん読んでいましたか。

【道尾】 小説を読み出したのは10代後半です。アウトドアな子どもでしたので。

【大沢】 自分がミステリー作家という自覚はどうですか。

道尾さん web用.jpg【道尾】 ないですね。書きたい小説を書いたら、ミステリーとして評価されたんです。

【大沢】 では、作家として一生やっていけるという確信はあるの。

【道尾】 それはあります。なぜかというと、自分の書く小説が大好きなんです。僕は8年間、会社に勤めました。営業マンで、わりと成績は良かったんですけれど、どうしても勝てない人がいた。その人は不器用なんですよ。でも、営業が大好きだった。

【大沢】 つまり、好きな人には勝てないと。

【道尾】 やっぱり大好きなやつにはなにをやっても勝てない。僕は自分の書く小説が大好きなんで、書けなくなることはないと。

【大沢】 なるほど。でも、自分の書いたものを「つまんねぇな」と思っている小説家はいないと思います。時々読み返して「俺って天才じゃないか」なんて、大体そう思っています。みんな自分が読みたいものを書くわけですから。

【道尾】 インタビューなどで作家が「読者のために」と言うのを聞くことがありますが、人のためにあんなつらい作業はできません。一方、読者にとっても活字を追うあの時間と手間は大変だと思います。

【大沢】 でも、入っていった本の世界が本当に楽しめるものだったら、そこにはものすごい興奮がある。結局、小説を書く人間というのは、物語の持つ面白さに魅せられたんだと思います。

【道尾】 僕が小説に魅せられたのは、太宰治の『人間失格』でした。冒頭の写真の描写。「活字、文章でしかできないことがあったんだ」とびっくりしました。

常に考えている

【大沢】 私と同じ事務所の宮部みゆきさんは道尾ファンで、「今度トークショーをやることになった」と伝えたら、ガーッとファクスが送られてきた。「えっへん」と書いてあって「道尾作品は私がレクチャーしましょう」と、全作品について細かなコメントがついていました。その宮部さんから直木賞候補になった『鬼の跫(あし)音(あと)』について質問があります。短編集ですよね。

【道尾】 はい。聴衆たち web用.jpg

【大沢】 全部話の内容は違うんですけれど、必ずSというイニシャルで書かれた人物が出てくる。男性であったり、女性であったり。死んでしまう人も犯人も。直木賞の選考委員会で「このSというのは何を意味するのだろう」という話題になったらしい。その時にある方が「Sin(罪)のSじゃないですか」と。その瞬間、全選考委員が「ほぉー」と言ったという話なんですが、そうなのかどうか。

【道尾】 僕は誰の顔も思い浮かべてほしくない時に、顔のないキャラクターとしてSを使うんです。アルファベッ
ト26文字全部、縦書きで当てはめたら、Sが一番しっくりきたんですよ。

【大沢】 そうなの。何か、がっかりしたような。

【道尾】 続きがあります。大丈夫です。『鬼の跫音』を書いた時に、やっぱり顔を思い浮かべてほしくない人物が各話に出てきて、それにSを当てはめていったんですけど、実は6話全部にSで始まるテーマがあるんですね。罪人のSinner、殺人者のSlaughterとか。

【大沢】 考えているねぇ。私は道尾さんの『ラットマン』を読んで、「この人、朝から晩まで小説のことを考えているんだろうな」と思いました。

【道尾】 起きている時間は、頭のどこかに小説のことはあります。

言葉から紡ぐ

【大沢】 小説を書く時に言葉から入る人と映像から入る人がいると思うけれど、道尾さんはどっち。

【道尾】 完全に言葉です。

【大沢】 私は映像。佐野洋さんのエッセーで『新宿鮫』を取り上げていただいた時、すぐに手紙に「自分の頭の中だけに映画館がある。そこで上映されている作品を文字化するのが私の小説だ」と書いてお送りしたら、驚かれた。でも、今の若い作家の方はほとんど映像型だと思います。言葉から物語を紡ぐ若い作家はいないんではと思っていました。

【道尾】 自分が本当にうまく言葉を操れているということではありませんが、上質な文章で書かれた小説は、景色を描けば肉眼より肉眼に近いし、声だったら肉声より肉声に近いという体験ができると思います。

【大沢】 日本の小説というのは、書き手が熟成して技術が進歩するほど、文章が削られていく。海外のものは油絵に近くて、上に塗っていく文章の語彙(ごい)が豊富になる。日本の小説は墨絵みたいで、濃淡で、奥行きから色彩さえも表すという方向へ、作家の技術は進んでいく。道尾さんは言葉の選択に対して確信的で、自覚的にそういう方向に向かっていくのかと思います。

新!読書 大沢氏と道尾氏 web用.jpg

きれいな日本語

【大沢】 おすすめの本を紹介しましょうか。

【道尾】 僕の1冊目は久世光彦さんの『雛(ひな)の家』。「時間ですよ」などの演出家として有名ですが、すごい名文家で、大好きな作家です。

【大沢】 私は久世さんがご存命だった時に「いま生きている日本の作家の中で一番きれいな日本語を書く方だ」と思っていて、ご本人にもそう言ったことがあります。読んでいるだけで心地良くさせる文章です。

【道尾】 ただ、久世さんの本はほとんど書店に残っていないんです。芸術選奨を取った『聖なる春』の文庫本まで絶版です。『雛の家』でなくても良かったんですが、流通しているものがあまりなかったので。

【大沢】 私の最初の推薦本はレイモンド・チャンドラーの短編集『待っている』。静かなホテルの一夜の出来事で、ここに大人の男と女の生きる悲しさとか切なさとかが描かれている。稲葉明雄さんの名訳で「人生はたった一度なのに、あやまちは何度でも繰り返せるものなのね」って、しびれてね。ハードボイルドってこういう世界があるんだと、きっと分かってもらえると思います。

【道尾】 次は玄侑宗久さんの『阿修羅』。先月出たばかりです。僕は玄侑さんの小説はすごく好きで影響も受けています。阿修羅というのは顔が三つある。多重人格の話で、その人格の生と死を描いています。

【大沢】 『シャム双子の謎』はエラリー・クイーンの国名シリーズという大変有名な本格ミステリーの中で、ちょっと特殊なポジションにある作品です。本格ミステリーでありながら、冒険小説的な色合いが非常に強い。国名シリーズの中で、一番どきどきした作品です。

圧倒的な悲しさ

【道尾】 海外の作品ではダフネ・デュ・モーリアの『レイチェル』。『レベッカ』の方が有名だと思いますが、僕はこちらの方が好きです。ラストシーンの悲しさが圧倒的です。喪失の物語で、なくしてしまった後になって大切だと気づくのが世の中で一番悲しい喪失だということが書いてあります。年上の女性と恋に落ちる、すごくすてきな小説です。

【大沢】 時間があれば道尾秀介の恋愛経験を聞いてみたいような気がしてきたけど……。
 『利腕』はディック・フランシスの作品。競馬シリーズで有名な作家です。イギリスの国民的なヒーローだった騎手が、引退して書き始めたら、とんでもなくすごい小説家だった。『大穴』で出てきた探偵、シッド・ハレーが再び登場する作品。先ほどの表現を借りれば、喪失と奪還の物語。最後の1行を読んだ時、活字が涙で曇りました。

【道尾】 僕の最後は――。

【大沢】 それは紹介しなくともいいと思うんですけれど。先に私の最後を。「大沢在昌/選」とある『警察小説傑作短篇集』。警察小説というのは、いま本屋へ行くとコーナーがあるぐらい人気のあるジャンルです。ブームのはるかな昔、藤原審爾さん、結城昌治さん、そして道尾さんが大好きな都筑道夫さんらによって、こういう面白い警察小説が書かれていましたよと、紹介したものです。

【道尾】 それでは最後に僕が大好きな長編、大沢さんの『罪深き海辺』。何が好きって、臨場感がいいんです。自分もその町にいて、たびたび飲み屋さんに行って、登場人物たちにかかわっているような気持ちにさせられます。

【大沢】 岬の漁師町が舞台ですが、全部架空の町です。

【道尾】 まるまる作ってしまうことでしか出せない臨場感と、実際の町を書く臨場感の違いが、『鮫』シリーズと読み比べると、すごく分かって面白いです。

【大沢】 架空の町のにおいとか空気を出そうと努力したのだけれど、そういうところに道尾さんは反応してくれているようです。きょうは道尾さんに驚かされることが多くて、小説家同士の突っ込んだ話ができたと思います。

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◇おおさわ・ありまさ 79年『感傷の街角』で、小説推理新人賞を受賞してデビュー。91年『新宿鮫』で吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞、94年『無間人形 新宿鮫4』で直木賞に輝いた。今年5月まで日本推理作家協会理事長を2期4年間務めた。
◇みちお・しゅうすけ 2004年『背の眼』でホラーサスペンス大賞特別賞を受賞してデビュー。07年『シャドウ』で本格ミステリ大賞、09年『カラスの親指』で日本推理作家協会賞に輝く。『向日葵の咲かない夏』は70万部突破のベストセラー。

【主催】活字文化推進会議
【主管】読売新聞社
【後援】文部科学省、文化庁、NHK、日本書籍出版協会、日本雑誌協会、読書推進運動協議会、日本出版取次協会、日本書店商業組合連合会、出版文化産業振興財団、日本図書館協会、全国学校図書館協議会

◆21世紀活字文化プロジェクト
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