神戸松蔭女子学院大学 活字文化公開講座

ロバートキャンベルさん基調講演
「世界に語りかける日本人の力」

朗読で深まる人とのきずな 

紙上掲載ロバートキャンベル氏.jpg 日本には世界でもまれな長くて深い独特の読書文化がある。読書は私たちに大きな力を与え、人と人を結び合わせる重要な役割も担っている。いい本がどれだけ流通し、まじめに読まれているかで社会資本の豊かさもわかる。
 
 私の祖父母は1920年代に大飢饉(ききん)のアイルランドから米・ニューヨークに移住した。石造りの集団住宅が立ち並ぶ古い下町には様々な民族が住んでいて、言葉も宗教も違う。犯罪も多かった。
 
 祖父母たちは強固なコミュニティーを築いた。次の世代を養い、きちんとした教育が受けられるようにと一生懸命だった。仲間が集まるとふるさとの歌を歌い、詩を朗読した。
 
 私は様々な本を買い与えられ、祖母は読み聞かせをしてくれた。おしゃべりや笑い声が絶えない環境にあって、私は声を出して読む習慣があった。しかし、小学生になった時、母は先生に「静かに読めるようにしましょう」と注意されたという。祖父母や父母は様々な歴史の分岐点に立ち会った。それが私の読書歴に影響を与えた。
 
 日本の江戸期や明治初期は、文字を筆で書きながら集団で読み上げ、文字を覚えた。私のなじんだものに似ている。でも「いろは」と書いたのではなく、手紙を教科書にして文字をなぞるという世界でも珍しい方法だった。手紙を読んでコミュニケーションについても学んだわけだ。集団で声を出せば、読み間違えた場合に年長者が指摘してくれるのもいい。
 
 私も東大で学生に文学作品を朗読させている。難しい理論について尋ねるよりも、わずか3行でも読ませれば、理解しているかどうかがわかる。それは漢字や平仮名、カタカナが合わさった複雑な表記言語である日本語の特性だ。
 
 東京の湯島には幕府直轄の昌平坂学問所があった。全国から集められた秀才が自作の詩や文章を読み上げ、合評することで、身分や年齢、地域を超えて互いの距離を縮め、きずなを深めた。読書にはそうした作用があることを当時の人は知っていたのだと思う。
 
 私はNHK教育テレビの番組「Jブンガク」で、日本文学の名作を英訳して紹介している。日本語の独特の力を発見する一方、外国語を学んで人とコミュニケーションを持とうとする原動力は何なのかと考えさせてくれる。
 
 日本語と英語には微妙な溝がある。多分、埋めることのできない差異だ。私が見つけた一例を挙げると、若山牧水が明治41年に初めて自費出版した歌集「海の声」に〈白鳥は哀しからずや 空の青海のあをにも染まずただよふ〉という短歌がある。
 
 学生だった彼のみずみずしい気持ちが伝わり、大好きな作品だが、翻訳の際に困った。白鳥は「はくちょう」なのか「カモメ」なのか、それとも「しらとり」なのか。初版初刷りの歌集を調べたら「はくちょう」とルビが振られていたが、再版本では「しらとり」に変わっている。その経緯がわからない。
 
紙上掲載会場.jpg みんなはどう読んでいるのか。同僚らに尋ねると、「はくちょう」と「しらとり」が半々に分かれた。そこでどんな情景が思い浮かぶかを絵にしてもらうと、1羽の鳥を描く人もいれば、2羽、3羽と群れている絵もある。
 
 牧水の歌は、本でいうと余白の所を自分の好きなように描き加えたり、色付けしたりできる部分を上手に残している。そんな素晴らしい作品だから、国民的な歌として残っているのだろう。
 
 英語は合理的で日本語はあいまいだと言われるが、それは違う。日本語は一つの言葉にいろんな意味を盛り込み、イメージを多彩に膨らませることができる。
 
 私は白鳥を「白い鳥」と翻訳したが、もっと個性的な翻訳もできるし、この歌が人から人へ伝わる中でイメージが変わっていくかもしれない。日本語は、そんなコミュニケーションを可能にするような包容力のある言語だと思う。

◇1957年、ニューヨーク生まれ。ハーバード大学大学院修了。85年から九州大学に留学し、講師を務める。国文学研究資料館助教授などを経て2007年から東京大学大学院総合文化研究科教授。専攻は日本文学。著書に「Jブンガク」など。テレビの語学教育番組やクイズ番組などに出演中。 

トークセッション

紙上掲載対談.jpg

【藤井】(写真左から2人目) 若者の活字離れが指摘されているが、言葉や漢字に対する興味は失われていない。一方で、読むことを習慣にできず、苦しんでいる人もいる。
 
【山内】(写真右はじ) 読書はコミュニケーション能力を養うための大きな情報源。本の中には他者の生活があり、未知の世界が広がっている。小説には珠玉の会話がちりばめられており、役立つものが多い。

【キャンベル】 読むという行為自体がコミュニケーションだ。小説のすてきな会話の中に、思わず自分の身を置いてしまう。私はハッとするような言葉に出会うと、後で使えるかもしれないと思い、手帳に書き抜いている。

【藤井】 生徒たちは始業前の「朝の読書」の時間に、集中して言葉と向き合っている。授業でも芥川龍之介の
羅生門」や、夏目漱石の「こゝろ」などの名作は反応がいい。登場人物を批判的に見るか共感するかといった自分の立ち位置が見えてくる。
 私はスポーツを題材にした文学作品に興味を持っている。登場人物の成長や心の葛藤(かっとう)をドラマチックに感じられるのが魅力だ。スポーツ小説は生徒の間でも人気が高いが、それだけではない。村上春樹や森見登美彦をはじめ多様な作品が読まれており、自ら求める気持ちも強いようだ。

【キャンベル】 自分の立ち位置を持つことは大事。ジャンルや作家、時代などにこだわり、それをベースに友人に格好良く語れるといい。

【山内】 小説の舞台がこの地域ならよくわかる、ということもある。一方で、年齢によって、どの登場人物に同情するかというような立ち位置の変化もある。

【キャンベル】 私がこだわる漢字のグループというのがあって、さんずい偏がそうだ。「渚(なぎさ)」は言葉自体がきれいだし、青年が日本海で夕日を見ながら別れた彼女のことを考えるといった映像が勝手に浮かんでくる。

【和田】(写真左はじ) 柔道の創始者で、国際オリンピック委員会委員にもなった嘉納治五郎は漢詩の素養があった。西洋文化を日本に受け入れる際、漢詩というフィルターを通して世界を眺めたのではないだろうか。

【キャンベル】 英国へ留学した夏目漱石は、漢詩の素養を通して言葉をつくろうという気概があった。小説「明
」では「ズボン」という言葉を使う際、「洋袴」という漢字に「ズボン」と仮名を振った。

【山内】 現代人はカタカナ語を安易に使い過ぎています。

【キャンベル】 確かに「コンプライアンス」は「法令順守」で済む。言葉は常に動いており、淘汰(とうた)されていくだろうが、心配なのは、親と子どもが親しんでいる音楽やテレビ番組が異なるように、言葉も世代によって断絶され、コミュニケーションを阻む要因になりかねないことだ。電子書籍の普及に伴い、本を持って紙の質や重さを感じたり、図書館や書店の棚で興味深い本を発見したりといった機会は減っていくだろう。対策を考える必要がある。
 私は東大の大学院生と一緒に年2回ほど、江戸時代の本が残る地方を訪ね、年配の郷土史家らと語り合っている。そうした世代間の交流が今の教育システムには欠けている。私は今、言葉に対する感覚をどのように若い人に受け渡すことができるかを考えている。

【山内】 「この本は本当に面白いよ」と学生に伝える指導者の熱情が大事だ。

【藤井】 自分の読書体験を飾らずに生徒に話し、「この作品は私には面白くなかった。みんなの感想を教えて」と挫折の経験も語っていきたい。そして、いろんなジャンルの本に接して自分自身を鍛えたい。

【主催】活字文化推進会議、神戸松蔭女子学院大学
【主管】読売新聞社
【後援】文部科学省、文化庁、兵庫県教育委員会、神戸市教育委員会、伊丹市教育委員会、西宮市教育委員会、尼崎市教育委員会 
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