第23回「私の好きな藤沢周平作品」

〜基調講演〜藤原緋沙子さん「切り絵図の中に見る江戸」

江戸の町 切り絵図で想像

講演 藤原緋沙子氏.jpg 私は高知で生まれ、京都で長く暮らしました。8年前に東京に出てきて、『隅田川御用帳』という縁切り寺の話を書き始め、作家としてデビューしました。

 京都は、神社仏閣が昔のままの姿で、街並みも変わっていませんが、東京はそうではありません。江戸の町を書くのは大変だなと思い、幕末の色つきの切り絵図を購入しました。ほんとに美しくて、これだと江戸の町を想像できるかもしれないなと思いました。赤は寺社、緑は畑、水色は川、沼、堀、海。町屋が灰色。大名屋敷には家紋があり、坂には三角印があって、上りか下りかもわかります。

 最近、江戸の坂を題材にした4編からなる『坂ものがたり』を出版しました。橋と同じように、坂の頂上にも、結界があると考えました。例えば九段坂の上り口あたりは町屋ですが、坂の頂上の向こうは全部武家屋敷です。

 逢(あ)う坂と書いて、逢坂(おおさか)という奈良時代の悲恋の伝説がある場所も舞台にしました。その坂を上れば、主人公の女性の運命が決定的に変わってくるのに、それを覚悟して上っていくという話を書きました。

 小説で一番大切なのは、人物をどれだけ描き切れるかということ。その人物が、どんな暮らしをし、どういうところに住んでいるのか。江戸について知らないことには、筆は進みません。

 「熈代勝覧(きだいしょうらん)」といって、江戸日本橋で、お店がどんなににぎわっていて、往来する人たちがどんな格好をしていたかを、こと細かに絵図にしたものもあります。私は、そういうものを、切り絵図の中に重ね、江戸の町を想像しながら小説を書いています。春には、切り絵図を一生懸命つくる人たちの話もひとつ書いてみようかなと思っています。

◇作家 藤原緋沙子さん(ふじわら・ひさこ) 高知県生まれ。2002年に文庫書き下ろし時代小説『雁(かり)の宿』でデビュー。ほかに『坂ものがたり』(新潮社)、『浄瑠璃長屋春秋記』シリーズ(徳間書店)、NHK土曜時代劇原作の『藍染袴(あいぞめばかま)お匙帖(さじちょう)』シリーズ(双葉社)などの著作がある。 

〜トークショー〜 藤原緋沙子さん&縄田一男さん

変化した東京

対談 藤原&縄田.jpg

【縄田】 京都と比べて東京には、往時の面影が残っていないというのは、その通りですね。東京は関東大震災以降、地方出身者の町に変わってしまいました。その当時、岡本綺堂(きどう)の『半七捕物帳』が、かつてなく売れました。震災が奪っていった江戸の面影を、読者が強く求めたんですね。同時に東京案内の類いがいっぱい出ました。これは、江戸時代に、地方から江戸に出てきた人たちのために切り絵図が作られたのと同じ状況だと思います。切り絵図を見て小説を書くとき、平面である切り絵図を立体的に浮かび上がらせなくてはいけないと思いますが。 

【藤原】 高知県にある私の生まれ故郷は、平家の落人(おちうど)村だったと言われるぐらい奥地で、自然に囲まれていました。長い間暮らした京都もまた、緑の中。そういう今までの暮らしが、小説を書く上で、絵図を見ると立ち上がってくるのだと思っています。

【縄田】 縁切り寺は、鎌倉の東慶寺などが実在していましたが、藤原さんの『隅田川御用帳』シリーズで、江戸に想定するのは勇気の要る決断だったのでは。

【藤原】 私は小説を書くとき、きちんと資料を読んだ上で虚構を書くのは構わないと考えます。深川が、江戸でも後でできた町人の町ですから、縁切り寺の場所には一番合っていると思いまして。

【縄田】 それは、切り絵図で見た上で、藤原さんが実際に深川で往時の面影を見よう、あるいは聞こうという意思があってこそ、初めて成立することだと思います。それから、最近お出しになった『坂ものがたり』は、藤沢周平さんの『橋ものがたり』へのオマージュでは、と思うのですが。

【藤原】 藤沢作品で初めて手に取ったのは『橋ものがたり』で、すごく思い入れがあります。じゃあ私は『坂ものがたり』を、と。

【縄田】 日本の時代小説を見ていますと、その嚆矢(こうし)になった中里介山の『大菩薩峠(だいぼさつとうげ)』の峠、藤沢作品の橋、藤原さんの坂を、上り切り、下り切ったところで何かが見えてくる、あるいは、何かが始まるという意識があると思うんです。

全部好き

【藤原】 今日は藤沢作品を5冊推薦するよう言われましたが、はっきり言うと全部好きです。

紙面画像 縄田一男.JPG【縄田】 私も五つに絞るのに苦労しました。藤原さんと共通して挙げているのが『蝉(せみ)しぐれ』ですね。あれを読みますと、もう完璧な純愛小説というのは、時代小説の中にしか存在しないんじゃないかとさえ思います。藤沢さんが愛読していたドイツ・ロマン派のシュトルムに『みずうみ』という代表作があります。愛し合う男女が仲を裂かれ、男が老人になってから、それを回想するという話です。結ばれなかった者は、結ばれなかった代償に、永遠の青春の中に生きるのだろうと思いました。

【藤原】 なるほど。

【縄田】 それから、私が選んだ『驟(はし)り雨』では、八幡様の軒下で隠れている泥棒の前に、何人もの男女が雨宿りに来て、さまざまな人間模様が繰り広げられます。

【藤原】 『驟り雨』は、大変心に残る一編だと思います。主人公の泥棒には、身ごもった女房を亡くした経験がありました。それでよろよろと帰っていく母親と娘を追っかけていき、声をかけます。「送っていこう。ここから子供連れで帰るんじゃあ、夜が明けちまうぜ」と。こういうのを読むと、胸がいっぱいになります。それが藤沢作品の魅力です。

【縄田】 それまで主人公は、社会に対する怒りを抱いたままだったんですね。藤沢さんが先妻を亡くす前、最初の子供も死産で失っていたことを考えると、この小説は、まさに藤沢さんが、自分の思いを託して、明るい方向を見始めた作品の一つじゃないかと思います。藤原さんが挙げた短編集『時雨のあと』の中で、これがいいというのは。

【藤原】 『雪明かり』です。これは菊四郎と由乃という、血のつながっていない兄妹の話なんです。由乃がお嫁に行き、いじめられて病の床に伏している。兄の菊四郎が見舞いに行く。帰ってくれと言われるが、無理やり入る。納戸の中に寝かされていた妹を背負って帰る。男のたくましさと、優しさを感じる、忘れられない一作です。

【縄田】 私は、『彫師伊之助捕物覚(ほりしいのすけとりものおぼ)え』というシリーズから『消えた女』を選びました。藤沢さんは海外ミステリー、しかもレイモンド・チャンドラーなどのハードボイルドが大好きでした。お嬢さんの回想によると、この作品を書いた時は、常に机の横にチャンドラーの作品が積んであったそうです。最初から注意して読んでいくと、主人公の目がカメラアングルになって、いろんな場所に入っていく。ハードボイルド的な要素というのをきちんと出しています。かつてはすご腕の岡っ引きだった人物を、藤沢さんなりの私立探偵として、江戸に登場させているんです。

【藤原】 私は、町奉行か何かにつながりがあれば、物事を解決しやすいと思うんですけど。自分の力できちっと解決する、というのを書き切るのがすごい。

小説で希望

【縄田】 小説に何が書いてあるかを突き詰めると、人がどう生き、どう死んだかということに行きつきます。例えばその小説の上に、歴史あるいは時代というのがつくと、作者の歴史観が加わったりする。その歴史観というのは必ず現代と鏡映しになっています。特に藤沢作品で言えば、過去の人たちを描いているけれども、私たちと同じなんです。

【藤原】 この先どう生きていったらいいのか考える時、小説を読んで、同じように苦しんでいる者がいて、少し光が見えてくると、希望がわきます。小説を読むのはとても大切なことですよね。

◇文芸評論家 縄田一男さん(なわた・かずお) 1958年、東京都生まれ。91年に『時代小説の読みどころ』(角川書店)で第5回中村星湖文学賞、95年に『捕物帳の系譜』(新潮社)で第9回大衆文学研究賞受賞。中山義秀文学賞選考委員。 
◇藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい) 1927年、山形県生まれ。73年、『暗殺の年輪』で第69回直木賞。86年、『白き瓶』で吉川英治文学賞。89年には「時代小説に新しい境地を拓(ひら)いた」として菊池寛賞。95年、紫綬褒章受章。97年1月26日死去。 

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