追手門学院大学 活字文化公開講座

 宮本輝さん基調講演 「心と言葉」

簡潔な言葉こそ名文

25歳の時に突然、パニック症候群という、それもかなり重症の病気にかかりました。今は、心の病として、知られていますが、当時は何もかもノイローゼという一言ですまされた時代でした。電車に乗ろうとすると、めまいがして倒れそうになる。1駅も乗っておれない。サラリーマンでしたが、電車に乗れないので、会社勤めができなくなった。なぜこういう状態になるのか、なぜ治らないのか。あちこちの病院に行きましたが、「気をしっかり持って」と言われるだけです。

掲載写真 宮本輝さん.jpg ある時、精神科の医者に行って、ようやく「典型的な不安神経症ですね」と診断された。今ならパニック症候群と言うのでしょうが。そして、こうも言われた。「心の病気ではあるけれど、あなたの心で制御できるものではない」と。

 その時、心って何だろうと、真剣に考えるようになった。その答えを求めた時、古典に戻っていったのです。「万葉集」「徒然草」「平家物語」「源氏物語」は全巻、トルストイの「戦争と平和」やフロベールの「トロワ・コント」……。古典と言えないかも知れませんが、山本周五郎や井上靖の時代を経て人々に読み継がれている名作などをひたすら読みました。

 そして、それらに共通するものに気づいたのです。それは、心を表現する時、無駄なメタファー(隠喩)や過剰なレトリック(修辞)を用いていないことです。例えば、山本周五郎の「虚空遍歴」という小説の書き出しはこうです。〈あたしがあの方の端唄をはじめて聞いたのは、十六の秋であった。逢いにゆくときゃ足袋はいて、――で終るあの「雪の夜道」である〉

 難しい言葉は一つもない。説明の文章がない。簡単な言葉で、小説全体を流れている文学の心が凝縮されているんです。

 説明と描写の違いです。私のように小説を書いている人間でも、失敗します。つい説明する。しかし、心を説明することはできない。心をわからせるには、描写しかないんです。「葉っぱが落ちた」だけでいいんです。私たちの周りには解釈だらけです。今は何もかも説明しないとわからない時代です。本屋の店頭には説明の本ばかり並んでいる。そんなことで、本当にものごとがわかるのか。

 小林秀雄が「徒然草」を論じた評論にこんな言葉があります。「徒然草」がいかに卓越した文章芸術かと述べた後に、〈よき細工は、少し鈍き刀を使うという〉。有名な仏師、妙観が、あえて切れ味鋭い刀を使わず、鈍刀で名作を生み出したという例をひいて、多くのことを感じながら、いかに言葉を使わず我慢するかが重要だと説いている。

 私の小説「森のなかの海」の最後の部分で、若いころに産み、死んだと思っていた息子に母親が会う場面があるのですが、さて、どう書こうかと、非常に悩みました。書いては消しを繰り返し、原稿用紙を何枚も費やしました。そして、結局、書かなかった。2人の思いのたけを互いに言わせなかったんです。書かないでよかったと思います。

 口承文学の「平家物語」には、2種類あります。一つは「断絶平家」と呼ばれ、壇ノ浦で悲惨な負け方をし、男たちが皆殺しされて平家は絶えていくところで終わるもの。もう一つは、それでは後味が悪いというので、「灌頂巻」が付け加わったものです。この二つを読み比べると、「断絶平家」の方がすごい。その最後は〈それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり〉で終わる。琵琶法師が琵琶をかき鳴らして終わるすさまじさを、私は中学2年生の時に、父につれられて能楽堂で見ました。その舞台は、人間の怨念や復讐(ふくしゅう)、恐怖、権力欲などが出現していました。しかし、言葉では何も言っていない。〈それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり〉と、事実を記しただけです。

 そういう小説を書いていきたいと思っています。「泥の河」から始まってこれまで多くの小説を書いてきましたが、いかに表現を少なくするかに腐心してきました。説明をせず、凝りに凝ったレトリックを使わないと自分に課してきました。心と言葉によってしか文学作品は生まれないわけですから、いかに自分の心を深めていくか、どれほどたくさんのことを書かずに我慢するか。これから書く小説を見ていただきたい。

 先日、97歳になる詩人の杉山平一さんから詩集が送られてきました。杉山さんに「不在」という詩があります。〈お隣は 遠くへ 引越して行ったのに シーンとした空家にむかって 幼い女の子が呼びかけている きいくちゃーん あーそびましょおおー ゆるやかに うたうように 信ずるものの澄みきった声で〉

 これこそが、「たくさんのことを感じる心」と、少し鈍い刀で彫られた言葉によって、織り上げられた文章芸術のよい例だと思います。

◇みやもと・てる 1947年神戸市生まれ、追手門学院大学卒。デビュー作「泥の河」で77年太宰治賞受賞。78年「螢川」で芥川賞を受賞。その後、「道頓堀川」「青が散る」など話題作を発表。87年に「優駿」で吉川英治文学賞、2010年「骸骨ビルの庭」で司馬遼太郎賞受賞。他に「にぎやかな天地」「三十光年の星たち」、84年からは父親をモデルにした大河小説「流転の海」を執筆中。

トークセッション「読むこと、生きること」

トークセッション「読むこと、生きること」は、読売新聞大阪本社文化・生活部の浪川知子記者が聞き手を務めた。

人間も歳月かけ熟成

掲載写真 宮本輝さんと浪川さん.jpg

【司会】 新設の追手門学院大学第1期生として、学ばれました。小説「青が散る」の中にはそのころの経験が反映されています。

【宮本】 「青が散る」で書いた通り、テニスコートを作っていました。強い先輩もいないし。本当に楽しい思い出です。大学も私たちも変わりましたが、駐車場から坂道が続いている風情は変わらない。

【司会】 自伝的な大河小説「流転の海」の第6部「慈雨の音」が8月末に刊行されました。どういう時代だったのでしょう。

【宮本】 戦前に成功を収めた主人公の松坂熊吾が、敗戦で時代に取り残されて、事業に失敗、路頭に迷う。しかし、ようやく活路を見いだし、親子3人が暮らせるようになるというのが「慈雨の音」です。日本全体がだんだん豊かになっていった時代。1959年から60年。東京オリンピックをひかえ、新幹線の工事も始まっていた。一方で、地方から中学校を卒業した子どもが集団就職列車で上野駅や大阪駅に送り込まれた時代です。

【司会】 北朝鮮への帰還問題も起こります。北へ帰る一家との別れのシーンが「慈雨の音」の中で心に残ります。

【宮本】 淀川の堤防で見送るんです。大阪駅は混乱していてホームに入れない。東海道線なら淀川を渡るからそこで見送ろうと。冬の夜、「アリラン」の大合唱が響く汽車が近づいてきた。それに向かって「こいのぼり」を振りました。冬だから目立つだろうと。

【司会】 この数年、長い歳月が人間にもたらす恵みをテーマに書いてこられました。読売新聞に連載された「にぎやかな天地」では、長い人生の中で、最初は不幸だったのが、思いがけない幸せに結びついたり、人間的成長を遂げたりしたことが描かれている。

【宮本】 それを微生物の発酵と絡み合わせていったんです。人間も発酵して熟成されていくものです。思い通りにいかないことも多いし、悲しいことも起こる。それらが、長い歳月の間に人間の熟成をもたらし、自然に解決に結びつく。おいしいチーズやぬか漬けになっていくように。発酵というのは時間がかかるんです。これを人為的に早めるようになってから、食べ物の劣化が始まりました。時間をかけなくてはならないものは、やはり時間をかけなくては。時間によって得るものがある。化学薬品では無理で、不思議な自然の作用です。発酵食品の場合の微生物で、目に見えないものです。そんな目に見えない、大きな力を書きたいのです。その最大のものは歳月です。

【司会】 作風がこれから少し変化しそうだとお聞きしましたが?

【宮本】 講演で言った「心と言葉」のところへ入っていくんです。もっともっとたくさんのことを感じ、どれだけたくさんのことを言わずに我慢するか。そういう文学の世界へ、自分を追い込んでいくつもりです。

【司会】 1996年から芥川賞の選考委員を務めていらっしゃいます。文学は変わったでしょうか。

【宮本】 低迷しています。あまりに多くを感じない心で、たくさんの言葉を使って書き過ぎる。それが今の純文学だと思います。若い人たちの文学観、ものの価値観が変わってきている。その中で新しい才能を見つけたいと思っています。

追手門学院大学 宮本輝ミュージアム

掲載写真 宮本輝ミュージアム.jpg 宮本輝さんは、1966年に開学した追手門学院大学に文学部第1期生として入学されました。大阪府茨木市の郊外に新設された本学で宮本さんは硬式テニス部に所属、テニスコートづくりから始めた部員たちの姿が青春小説「青が散る」に描かれています。
 2005年には付属図書館に併設する「宮本輝ミュージアム」を開設し、一般に開放しています。「錦繍」や「優駿」など代表作の直筆原稿の展示や映像上映など、宮本さんの著作に触れることのできる感動と共感の場を提供しています=写真=。毎年春と秋の2回、企画展を実施しており、全国の宮本輝ファンが来訪されます。
(追手門学院大学付属図書館館長 福井南海男)
       ◇
宮本輝ミュージアム(無料)。開館時間など詳細は072・641・9640へ。

【主催】追手門学院大学、活字文化推進会議
【主管】読売新聞社
【後援】文部科学省

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