【私のオススメ本】有隣堂 市川紀子さん推薦
「典獄と934人のメロス」(坂本敏夫 著)講談社

 ◆刑務所長と受刑者の信頼 
 関東大震災(1923年)の時、横浜刑務所では何が起きていたか―。元刑務官の著者が30年にわたる取材を通じて真実を追求したノンフィクションです。
 監獄法(現・刑事収容施設法)では、天災時に受刑者らの収容が困難な場合は、典獄(刑務所長)の権限で24時間に限って解放することができました。典獄の椎名通蔵はそれを断行します。

ビブリオバトル
 囚人服を見た市民は、逃亡したと誤解しました。誤解によるパニックが受刑者や朝鮮人に対する流言飛語に拍車をかけ、自警団が暴徒化して虐殺につながったとされ、解放に踏み切った椎名は悪者になります。
 著者はある時、横浜刑務所長から震災時の記録が残っていないことを知らされました。当時を知る人に取材すると、受刑者たちは被災者を救出したり、港で荷揚げを手伝ったりしていて、実際に逃亡した人はいなかったことが判明します。
 実は椎名は受刑者たちから絶大な信頼を得ていました。「椎名を裏切ることはできない」。信頼関係があったからこそ、全員が戻ったのです。看守による暴力が当たり前だった当時、椎名は受刑者一人一人に声をかけ、全員の顔と名前を覚えていたからです。
 なぜ椎名は悪評のままで良しとしたのか。そしてなぜ記録が残っていないのか。実は法相と椎名との間で交わされた密約がありました。
 本を紹介しあって最も読みたい本を投票で決める「ビブリオバトル」に私が出会ったのは、本を活用した新たな事業を探していた6年前。勤務先の書店「有隣堂」でも月1回開催しています。参加者の顔と名前を覚えると一気に距離が縮まり、イベントで失敗やトラブルがあった時も、常連さんが助け舟を出してくれます。そんなとき、椎名の行いは正しかったのだと実感します。
 ビブリオバトルは、単に本の説明をするのではなく、参加者の好みを推察し、つかみ所を紹介できれば、本の新たな一面を見せることができます。知識を共有できれば大成功です。
 椎名は罪に対して「応報ではなく教育が大事だ」と説きました。本は「知の塊」です。書店に勤めながら教育に携わる仕事ができて良かったと思っています。
     ◇
 著者は刑務所の刑務官として東京拘置所、黒羽刑務所などで勤務し、1994年に広島拘置所総務部長を最後に退職。著書は「死刑執行人の記録」「刑務所のすべて」など多数ある。

※6月8日付けの読売新聞神奈川県版にも掲載されています。

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