清水義範さんが文学における「パロディ」を

青山学院大学 読書教養講座 一般公開授業

基調講演

「文学はパロディでつながっている」

20060223_06.jpg 本日はパロディについて考えたい。私自身が行っている、パスティーシュと呼ばれる文体模倣も大きくとらえれば、パロディに入ると思う。

パロディとは簡単に説明すれば、すでに文学作品から、語句、文体、リズム、テーマなどを模倣することだ。つまり、まねをするのだが、物まねすると何だか笑える。

まねをされる対象が、真面目くさっていたり偉そうぶったりしていると、それまで価値のある偉いもののように思っていた権威がひっくり返る。人間は笑おうと思うとき、このような模倣を自然に行ってきた。

一番古いかもしれないパロディと言われているのは、紀元前5世紀に書かれた作者不明の『蛙と鼠の戦争』という叙事詩だ。すごく格好のいいホメロスの『イリアス』の文章で、「そのときこのネズコーはチューチュー鳴いた」と書かれれば変で滑稽だ。

もともと何かあるものをまねしよう、いいところをそのまま引用して使わせてもらおうというのがパロディの精神だ。そもそも学習とは模倣だ。人間の芸術活動は、みんなどこか物まねだ。

アリストテレスの「芸術とは模倣である」という言葉には、ふたつの意味があるという。ひとつは現実の人間や実際の景色など自然の模倣で、もうひとつは先行芸術作品の模倣だと。

20060223_05.jpg 紀元前15世紀から10世紀にかけて成立した世界最古の文学作品と言われている『ギルガメッシュ叙事詩』 が、19世紀後半に解読されて大騒ぎになった。『聖書』の「ノアの方舟」と同じ筋の話が書かれていた。

キリスト教やユダヤ教の生まれた中近東のあたりには、昔、実際に大洪水があったと考えられる。しかし、話の細部まで似ていることから、ノアの方舟の話は、『ギルガメッシュ叙事詩』を、どこか精神的に引用したという解釈も成り立つ。あの『聖書』ですら、ある部分は先行作品のパロディと言っては失礼だが、みたいな面があると。

逆に言えば『聖書』自体がパロディされまくりの文学だ。ミルトンの『失楽園』もオスカー・ワイルドの『サロメ』など。『聖書』は話の宝庫だから。

ジェームス・ディーンの出た映画『エデンの東』。原作のスタインベックは、カインとアベルの兄弟殺しの話から、兄弟による愛の奪い合いというテーマを発想した。

父と子をテーマにしたフォークナーの『アブロサム、アブロサム!』は、『聖書』の中のダヴィデ王のセリフをそのまま題名にした。

ハリウッド映画の『アルマゲドン』や『デイ・アフター・トゥモロー』など世界が滅亡するような話も、天地が崩れて人類が滅亡するという予言を記した『ヨハネの黙示録』のパロディと言える。

それではパロディはオリジナルに比べて価値は高いのか、低いのか。創作活動は先行作品に刺激を受けて始まる。もしまねしたものはレベルが低いとなると、世界文学はどんどん下に行ってしまうことになるが、そんなことはない。だから、パロディという形自体は、上とも下とも言えないというのが正しいだろう。あくまでも作品の出来が左右する。

17世紀の初頭に書かれたセルバンテスの『ドン・キホーテ』は、奇跡的にうまくいったパロディだ。セルバンテスは「この物語を大流行しているあのくだらない騎士道物語を粉砕するために書いた」と記している。風車と闘ったり女性をみかけたりする時のドン・キホーテのセリフは、騎士道物語の名セリフで、当時の人々は皆知っていた。何をからかっているのか一々分かるから、笑えて笑えて仕方がないわけだ。

20060223_01.jpg でも100年ほどたつとあまり読む人はいなくなった。何のパロディをやっているのかわかる人がいなくなってしまったのだ。ところが19世紀になって、ヨーロッパの著名な作家たちが、これはすごい小説だよと再評価した。パロディだから価値があるのではなく、真の人間が描かれた古典文学だよと。そしてそうそうたる作家たちが「私もドン・キホーテ的人間を書きたい」ということになった。

ドストエフスキーの『白痴』や、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』などの作品で、今度は『ドン・キホーテ』がパロディされる。

映画『男はつらいよ』の寅さんは、ドン・キホーテのパロディだ。山田洋二監督がはっきり意識しているかどうかは別だけど、何となくはそうだなとは絶対に思っているだろう。

それからスウィフトの『ガリバー旅行記』は、実はデフォーの『ロビンソン・クルーソー』のパロディとして書かれた。気に入ったからではなく、腹がたったからけんかをうるために。 『ロビンソン・クルーソー』の中には、当時のイギリスの植民地主義が反映されている。どちらかというとイギリスの統治下にあったアイルランド人のスウィフトは怒ってしまったわけだ。前の作品に対する怒りも次の作品が生まれるエネルギーになる。

日本ももちろん同じだ。江戸文学とか和歌の本歌取りとか。

丸谷才一さんによると、『我が輩は猫である』は、イギリスのスターンという人の『トリストラム・シャンデー』がお手本だろうと言われている。『坊っちゃん』はフィールディングという作家の『トム・ジョーンズ』がお手本らしい。孤児の冒険譚を描いた小説だ。

ここからは私の考えだが、なぜ『坊っちゃん』という題名なのか。主人公は弟で、明治時代の次男は、家を背負わなくてもよい存在で永久に子どものままでいられる。

5男の漱石は養子に出されたが、21歳の時に夏目家に戻る。漱石は自分は捨てられたという思いがどこかにあるに違いない。そこに永久に大人になれない次男が、田舎へ旅して冒険する『坊っちゃん』という小説を書きたくなった心があるのではないか。

森鴎外が『青年』を書いたのは、漱石の『三四郎』を読んでからだ。青春小説の一種のパロディだ。

文学というのは結局、パロディのような形で引用されたり模倣されたりと、喜ばしく継承されているのではないか。文学はパロディでつながっている。今ある文学は決して昔の文学と無関係に出てくるわけではない。歴史につながっているのだと、私は認識している。

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対談

パネリスト
清水義範さん(作家)
島田順好さん(青山学院大学教授)

20060223_03.jpg【嶋田】 清水さんの『蕎麦ときしめん』は、日本文学の歴史に、文体模写、あるいはパロディとしてのジャンルを確立した記念碑的な著作だと思う。そのような作品を生み出す何かのきっかけはあったのか。

【清水】 おかしなことを言ってクラスの生徒を沸かす、そんな面白いやつだった。ただ受けるだけではなく、そこにぎょっとするような変なことを言いたいな、という希望があった。小説家になりたい気持ちも別にあって、30歳を過ぎてその2つが結びついた。

10年間、まじめに世の中にはやっているような小説を書いて落選し続けた。ふっと一番得意なギャグをやったら受け入れられて。非常に狐につままれたような気がしたのを覚えている。

【嶋田】 柳瀬尚紀さんが訳されたジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』のパロディ『船が州を上に行く』 は、清水さんの天才的な言語感覚が発揮された傑作ですが、何十時間とか何百時間とかをかけて書くのか。

【清水】 むちゃくちゃ変な言葉のパラドックスのアクロバットみたいな翻訳なのだが、かけた時間は10時間くらい。

【嶋田】 『永遠のジャック&ベティ』のような文体で書いているときは自分でも笑っているのか

【清水】 あの種のものを書いているときは、面白い場面で自分でもげらげら笑っている。

【嶋田】 読書指導として何かアドバイスを

【清水】 学問とか学習とか勉強の感じがありすぎるのがいけない。本と言葉は面白いものなのだから。

【ゼミの女子学生】 私たちのゼミに推薦していただける本は

20060223_04.jpg【清水】 日本文学か世界文学か、どちらが頭に入りやすいかだけ見極めてほしい。それから可能な限り昔にさかのぼってみるという読み方をしたらどうか。

【嶋田】 今までの読書の歩みの中で、メルクマールとまった作品はあるか

【清水】 本を読むことが大好きな子どもだった。少年少女世界文学全集を毎月1冊づつ持ってきてもらって。一方で江戸川乱歩へ行ってミステリーの大ファンになった。高校生でSFファンになり、柴田練三郎さんのチャンバラも読んだ。どれも等しく同じくらい面白かった。

【嶋田】 これからも知的で上質なユーモアを、私たちに豊かに与え続けてほしい。

(2006/02/23)

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