2015年03月20日
和洋女子大学 「平安文学とかな文字」
基調講演 冲方丁氏
「受け継がれる」意識を
みなさんは物語というものについて考えたことはあるでしょうか。なぜ人間は物語を求めるのか。そもそも物語というのは何であるのか。
人間は、経験したことがないものを、理解できない。いろいろな経験に基づいて何とか想像をしてみるけれども、直接的には理解できない。理解はできないのだけれども、情報は伝わるという、これが人間のコミュニケーション能力の特徴的なところで、人間は、経験をもとに、さまざまな事象について、言葉を作り上げて伝達していく。
人間は、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感で直接的経験をし、時間という軸でその経験を意味付けていく。
ただし、その直接的に経験できる物事というのは、ほとんど一部にすぎません。人間が生きていく上で、実は多くの場合、自分が経験したことがないにもかかわらず、他者の経験によって成り立っているものに依存しているのです。これが間接的な経験です。
こうした直接的、間接的な経験のほかに、神話的、宇宙的経験というような第3の経験もあります。誰にも実証は不可能なのだけれど、どうもそうなっているらしいと。たとえば宇宙の果てがあるらしい、などということです。
こうした三つの経験をもとに、人間は第4の経験を持つことができる。これが人工的な経験です。直接的、間接的、あるいは神話的な経験を組み合わせて、万人に伝達するような形にすることによって、架空であるにもかかわらず、時には社会を動かすような力を発揮する。それがいわゆる物語なのです。
現代では、たとえば権力にすり寄るような物語をつくってもいいし、宗教的なものを背景にして書いてもいい。おもしろいものを書いてもいい。たとえ誰もおもしろいと思わないようなものを書いても、ある日突然お上のお縄にかかることもない。我々は今の時代、自由に物語を享受できる。書く側だけではなくて、読む側にとっても、受け取る側においても非常に自由な時代となっています。
物語というものは、最終的には人間がどれを残すかどうか決める権利がある。物語は、常に後世から現代へと、あるいは未来へと受け継いでいくものです。だから、将来、子や孫たちに自分は何を残したいと思うかを、ぜひ心の片隅で考えていただければなと思っています。
パネルディスカッション 進行・三澤成博氏
創意工夫しがいある ものすごく自由
――かな文字というものに対して、これまで考えていたことがあれば、教えてください。
冲方氏 日本語の一番の特徴だと思っていますのは、漢字という表意文字と、かなという表音文字を同時に使えることかなと思います。この二つの文字が使える日本語は、作家にとって非常に創意工夫のしがいのある大変すばらしい言語だと思います。僕は昔、海外に住んでいたこともあって、生まれて初めて書いた小説は英語だったんですね。英語がネイティブだったのですけれど、日本語の方がやはり圧倒的に面白いんですね。今は日本語ばかりで書いています。
――著書「はなとゆめ」を創作中にも、いろいろと苦心した点があると思いますが。
冲方氏 「枕草子」を題材にしたときに二つ問題点がありました。一つは、30代後半の男が、女性言葉で書いて果たして読者に通じるのかどうかということ。もう一つは、心情を空想するのはいいけれども、「枕草子」に書かれていないようなエピソードを、自分が独自に加えていいものかどうかというのが非常に悩みどころでした。
野口紗季さん(日本語表現コース4年) 「紫式部日記」の中で、清少納言についてあまりよく書かれていないのを読みました。
冲方氏 清少納言と紫式部は、それぞれ対立する中宮のもとで働いていましたが、調べてみると、清少納言と紫式部は、ほぼ同時代には働いていないようなのです。紫式部個人の感情ではなく、自分が仕える中宮を高めるために、そうしなければいけなかったというところだと思います。そして、紫式部が怒る理由の一つとして考えられることは、「枕草子」の中で、清少納言が紫式部の家族の悪口を書いているので、もしかするとそれに対して腹を立てたのではないかなというのはあります。
山田麻裕さん(日本文学コース4年) 「はなとゆめ」を執筆中に、かなの魅力や力というものを感じることはありましたか。
冲方氏 漢詩文化はものすごくルールが厳しくて、江戸時代の漢詩の書き方集みたいなものを読んだのですけれども、何が何だかわからないくらい複雑なのですね。一方で、かなというのはものすごく自由なのだなと感じました。
村山加奈さん(日本文学コース3年) かなが3種類あったという話がありましたが、実際の「源氏物語」でそのようなかなを使った描写はありますか。
木村氏 「常夏」の巻に出てくる近江君が和歌を、漢字の字形に近くて古臭い草仮名で書いたという例があります。
鳩みさきさん(書道コース4年) 濃い色の紙には濃く太い線を、淡い色の紙には細い線で書くことで読み手に見やすくするといった料紙を使用したかなの表現についてどのように考えますか。
湯澤氏 紙によって書き方を変えるという繊細さというか、気の配り方はやはり日本人らしいと思います。
岸田宏司学長あいさつ
活字の力 見直す時
現代社会には、大量の情報が流通しています。活字にとって、紙以外の媒体ができたこと、そしてデジタル化されたことは、その活躍の場を広げる効果があったのだと思います。その活字の力を、マルチメディアが進む現代社会の文脈の中で、もう一度見直すことが求められていると考えています。
我々の脳にある概念や思いを活字に残すことの重要性を再認識し、その行為の意義を、この公開講座を通して多くのみなさまに問いたいと考えています。
文字と書 調和した芸術
日本文学文化学類教授 湯澤聡氏
書というものは、文字を書くというだけではなくて、その文字をどのように書くかという創意工夫、技術があって初めて成り立つものなのですが、基本的には漢字の書法というものをマスターした上で、かな文字をどう書くかということだと思います。
かな文字で書かれた書を見たり、あるいは読んだり習ったりする対象は、平安時代では、女性であったというように考えるのが自然です。文学、文字、そして書というものが、これだけかみ合った時代は、日本の書道史上でもなかったのではないかと思います。書というものは、必ずしも内容を表現するものではないのですが、平安時代ではそういった世界が一致していたのではないのでしょうか。
すぐれた芸術は、書のほかにもたくさんありますが、歌を素材に、かなという文字を素材にして作っていった芸術が、かなの書ではないかと思っています。
和歌集に込めた「人の心」
日本文学文化学類助教 木村尚志氏
「源氏物語」の時代には、和歌を書き記すときに、3種類のかなを書き分けていました。そのなかで、「女手」というかなの一種の呼称がその総称でもあったことは、かなが女性と結びついて広まったことを示す事実です。
かなは和歌によって発達しました。「古今和歌集」には、「真名序」と「仮名序」というのがあります。「序」というのは、書物などの趣旨、目的、その内容を端的にまとめて、これからこういうものが始まりますよということを書いたものです。「序」は本来、中国から輸入されたものですので、漢字、すなわち真名で書かれたものでした。
では、なぜ「古今和歌集」にかながあるのか。それは、かなでしか表せない「人の心」を、この歌集全体で表したいという宣言がここにあるからです。漢詩の隆盛期が続き、その裏で衰退していた和歌を公的な文学に押し上げる象徴的な意味合いもあったのです。
主管 読売新聞社 後援 文部科学省