「本の数だけ学校がある」

青山学院大学 読書教養講座 一般公開授業

基調講演「本に魅せられて」/林真理子さん

「世の中の広さ」教わる

20061204_01.jpg いじめが問題になっているが、私も中学校では本当にいじめられた。そんな私は本の世界に逃げていった。そして本は「新規まき直し」という言葉を教えてくれた。

世の中にはものすごく広い世界がある。海外もあれば宇宙もある。恋も待っているし、さえない娘が突然美女になることもある。あと2年我慢して卒業したら、いじめっ子のいない高校で、青春小説のような学園生活を送ろうと。

私の生まれ育った家は、山梨の小さな本屋だ。茶の間にも階段にも本があふれかえっていた。母が布団を干しているわきで、リンゴをかじりながら寝そべって本を読む楽しさといったらない。

本とは不思議なもので、きれいに手を洗ったつもりでも一度だれかに読まれたら痕跡が残る。「もうお店の本は読んではいけない」と禁じられたかわりに、毎月1冊ずつ出る河出書房の文学全集をおろしてくれた。作家になってから「林さんの文章には、子どもの時のきちんとした読書が表れている」と言われたことがあり、とてもうれしかった。私の本との出会いは幸福なものだった。

母も文学少女だった。雑誌『赤い鳥』に作文を投稿して、鈴木三重吉に激賞されたこともある。

そんな母が終戦直後、買い出し列車の中で太宰治の『斜陽』を読んでいたら、涙がとめどなく流れ落ちてきたという。幼い息子を栄養失調で失い、夫は中国大陸に行ったまま生死不明。ひとりぼっちになったけれど、それでもこの戦後を生き抜いていくんだと決意したのだという。その話を聞くたびに、本の力のすごさを身に染みて感じた。

資料の山読む楽しさ

作家の人たちは、みなさんが考えているよりも、おそらくずっとたくさんの本を読んでいる。作家デビューしたころ、大好きな有吉佐和子さんの家に初めておじゃましたら、ものすごい量の古文書が積んであった。驚いて「読むの大変じゃありませんか」と尋ねたら「あなた何言ってるの。作家にとって一番楽しいのは小説を書くことではなく、資料を読むことでしょ」とおっしゃった。

浅田次郎さんは『蒼穹の昴』の中で科挙(※)の試験問題と答えを書いている。浅田さんによれば「勉強していたら問題が作れるようになったので楽しかった」ということだそうだ。

私もその感じが少しずつわかってきた。女優の浅丘ルリ子さんの伝記を書くために、半年前から旧満州国に関する山のような資料を端から読んでいる。浅丘さんのお父さんは旧満州国の高官だった。旧満州国の「陰の帝王」といわれた甘粕正彦が絶世の美少女に驚愕(きょうがく)したなどという話を考えると、ざわざわするほどうれしい。

今の若い人が本を読まないというのは事実だ。ネットの世界から生まれた本を読むと、レベルが低くて正視できない。売れているので何か魅力があるとは思うのだが、読書体験がこれで終わってしまったら、あまりにも寂しいではないか。

読むことは輝くこと

20061204_02.jpg 作家の出久根達郎さんは、家が貧しくて中学を卒業して古本屋に勤めた。本に囲まれて楽しかったが、やっぱり勉強したい。それで店の主人に「夜間学校に通わせてほしい」と頼んだ。すると主人は「本を読んでいれば大丈夫。本の数だけ学校がある」とおっしゃったそうだ。この話を読んだとき、なんと素晴らしい言葉だろうと涙が出そうになった。

電車の中などで一人でメールを打っている姿には寒々とした感じは免れない。でも本を読んでいる人は、それだけで輝いて見える。

先日、六本木の喫茶店で、最新流行の七分パンツをはいた子が一人で文庫本を読んでいた。何読んでるのかなとトイレにたったすきにのぞいてみたら川上弘美さんの作品で、ああすごいなあと思った。文庫を読んでいる女の子はカッコいいという風潮をぜひ作りたい。

V6の岡田准一さんとラジオで対談することになった。本好きというので、ちょっと意地悪してガルシア・マルケスとか、三島由紀夫の『春の雪』とか小手調べという感じでいろいろ取り混ぜて5冊ほどあげてみた。そうしたら驚いたことに全部読んでいて、この美貌(びぼう)はただの美貌ではないと、おばさんはますます好きになってしまったのだけれども。

若い方たちに特に伝えたいのは、読書という行為は一人でいても決してみじめではないということだ。仲間はずれにされることを極端に怖がっているけれど、本さえあれば何も恐れるものはない。

本はものすごく多くのことを与えてくれる。本の数だけ学校がある。

※科挙:中国の歴代王朝が行った官吏登用試験

対談/質疑応答

読んでつける「書く基礎体力」本屋の娘で良かった

【嶋田】 私のゼミの授業では、林さんの自伝的な作品『葡萄が目にしみる』と、お母様について書かれた『本を読む女』を取り上げた。すると『葡萄—』の世界にはすっと入っていけたが、『本を読む女』には、時代背景のギャップに戸惑い感情移入できず、読みにくかったという学生が多かった。

【林】 最近出てくる若い作家の書く世界が年々狭まっている感じがする。私は「半径1キロ以内小説」と呼んでいる。よく書けているのだけれども。読者も半径1キロからなかなか外に出ていかない。

【嶋田】 学生の好む作家の移り変わりも激しい。

【林】 作家のカラオケ化が始まっている。本は売れないけれど、みんなが私も私もと参加したがる。すごく上手な若い人もたくさんいるが、長持ちしない。書くための基礎体力ができていないうちにデビューしてしまい、ちょっとちやほやされて消えてしまう。本当に残念だ。

【嶋田】 基礎体力とは読書量?

【林】 それと物語を構築する力。半径1キロ以内の小説では、例えば谷崎潤一郎のような、天上にある広大無辺なきらびやかな空間をつかむことはできない気がする。

【嶋田】 デビュー作の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』以来、開拓者的に歩んできたが。

【林】 以前は、新人賞を受賞するか同人誌から出てくるのが普通だった。全く違う分野から小説を書き始めたので、直木賞を受賞したときも「賞の権威が地に落ちた」とまで言われるなど、悔しいことはいっぱいあった。

【嶋田】 本に魅せられた者が、人を魅了する作家になる。今日までの膨大な読書量にこそ、林さんがうたかたで消えない理由がある。

【林】 本屋の娘で本当によかったと思う。

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編集者は「最初の読者」

【ゼミ生】 このゼミを通して本を読むことがすごく楽しくなった。将来は小説の編集者になりたいのだが、どういう能力が必要か?

【林】 編集者は最初の読者。私たち作家は、すごく不安な気持ちで第一稿を渡す。編集者は全身全霊をかけて感想を書く。編集者のすべての力量が表れる。作家の信頼を勝ち得るかどうかは、そこにかかっている。

【嶋田】 心に染みいる授業に感謝します。

(2006/12/04)

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