第11回「僕たちと小説と」

五感が読解力を生む〜市川さんによるイントロダクション

20070716_01.jpg まず僕の「取り扱い説明書」を話しておきます。大勢の人の前で話したり、逃げ出すことができない状況に置かれると、パニックになってしまって苦手なんです。映画化された作品の舞台あいさつでもひざがガクガクになってしまう。だから、電車にも乗らないし、理髪店もいすから動けないから駄目。

子どもの時は授業に出ても座ってられず、教室中走り回り、大学時代は授業に半年間、出られませんでした。記憶障害もあって、14年間の会社員時代は、仕事机にメモをはり付け、終わったら捨てていかないと同じことを繰り返してしまうので、たいへんでした。

なぜそうなのか。自分の感覚でいうと、脳の前頭葉の血の巡りが人より少ないらしい。また、体内の内分泌が活発で、動けというホルモンが普通より大量に出ているんじゃないでしょうか。

でも、そういう風に普通の人と考え方が少し違うからこそ作家になれたのだと思います。既成のフォーマットを無視して自分の絶対的価値観で物を見ることが、創作にプラスになることもある。海外の映画監督や作家でも、そういう人格で頑張っている人はたくさんいます。

書いている小説もそうですが、読み手の立場でいうと、まずは感情ありきで、頭で考えるのは得意じゃありません。だから感情や生理に訴えかける本を好んできました。センチメンタルで泣ける話が好きで、今でも一日に一回ぐらいは泣いています。

人間は哀(かな)しみや不安が高まると泣きます。そうして流す涙はストレス物質を体の外へ出してくれると聞きました。だから泣くことは、生まれつき傷つきやすい人間にとって、ある種の防御反応となり有用です。泣けると言われる自分の小説の擁護になってしまうけれど、日本で一人ぐらい「お涙ちょうだい作家」がいてもいい。

僕は五感が今の時代の基準からすると原始時代の人のように敏感なのだと思います。だから、外食は何を食べても味が濃いし、市販のジュースも添加された香料がトイレの香水みたいに思えてしまって飲めない。でも、そういう肉体的な情報に敏感なら、小説を読むときの足しになります。

僕は普通の人からすると偏ったところに立つ人間。たまにはそういうところからの提言を聞いてみるのもいいかもしれない。今日は、五感を大切に生活している人に訴える小説を紹介するつもりです。

「僕たちと小説と」トークショー

夏、言葉の海へ 読み方自由形

20070716_02.jpg【中村】 今回、初めて市川さんと対談することになり、『いま、会いにゆきます』を読みました。主人公の名前が「たっくん」で、作家と同じ名前だということに驚きました。

【市川】 自分でもいいのかな、と思ったりして。

【中村】 最初はどんな方かイメージがわかなかったんです。共通項が見つかるかなと……。僕は夜型ですが、朝は早いそうですね。

【市川】 早いときは午前4時、5時に目が覚めて、家族に迷惑なんでよく本を読んでいます。仕事も日中に終えてしまう。お酒が飲めない、夜起きてられない。不良になれないんですよ。

【中村】 僕は5時まで飲んでいることはあるけど、5時に起きることはないな。

【市川】 バイクが好きというのは共通していませんか。僕は小説を書き出す前、沖縄をのぞく全県を回りました。中村さんの『100回泣くこと』に、バイクのキャブレターを分解する有名な場面がありますね。実際に分解の経験があるか聞いてみたかった。

【中村】 タンクを外して洗うところまではやったけど、キャブレター自体はショップに任せました。

文体が生む迫力

【市川】 実はお互いのデビュー年も2002年で一緒です。接点が見つかったところで、お互いの推薦する本を紹介していきましょうか。僕の場合は99%、1950年以降に書かれた外国の翻訳作品しか読みません。最近、五感を刺激された一冊が『観光』です。タイ系のラッタウット・ラープチャルーンサップさんが著者です。

【中村】 タイの物語なのに人間関係や風景など、日本の小説を見ているような既視感がありました。

【市川】 7本からなる短編集です。ラストの場面で、11歳の弟が酒に酔った兄をバイクに乗せて疾走する「カフェ・ラブリーで」は、肉体的な解放感があふれています。長崎出身でイギリス在住のカズオ・イシグロさんをはじめ、英語圏では今、本当にアジア系作家が元気があります。

【中村】 この作品もそうですが、僕は子供が主人公の小説が好きです。それで『悪童日記』を紹介したいですね。

【市川】 ハンガリー出身のアゴタ・クリストフ作。強烈な双子が出てきます。

【中村】 時代背景は一切書いてありませんが、おそらく作者の出身地であるハンガリーの田舎町が舞台で、戦争の時代でしょう。祖母の家に預けられた双子が生き抜くため、お互いに体を鍛え、盗みや恐喝などありとあらゆることに手を染め、生き抜いてゆく。

【市川】 主人公の双子は男ですけど、作者は女性なんですよね。

【中村】 そうでした。作家の文体の醸し出す迫力もあります。この作品は、二人が書いた日記のような形で進みます。彼らは文章を記すとき「あるがままの事物や、自分たちが見た真実しか書いてはいけない」と決めてしまう。

【市川】 すごいルールですよね。

【中村】 「おばあちゃんは魔女に似ている」は、あいまいだからダメ。「人びとはおばあちゃんを<魔女>と呼ぶ」のは許される。ヘビーな出来事を、たんたんと文章で記録していく。この文体でしか浮かびあがらないものがある。

【市川】 これは3部作ですが、双子の年齢が最も小さいこの作品がいい。

【中村】 宮沢賢治の童話『セロひきのゴーシュ』も非常に好きです。楽団でチェロを弾くゴーシュ君が団長にすごく怒られ、家で練習中に色々な動物がやって来る。最初に来た猫が生意気で、腹をたてた彼は「インドの虎狩り」という曲を弾くと、もだえ苦しんで……。

【市川】 どんな曲か聞いてみたい。譜面があるといいのに。

【中村】 ゴーシュ君は結構冷たい人で、猫の舌でマッチを擦って火をつけたり、色々な意地悪をする。細かなエピソードが1行ごとにいちいち面白い。めちゃくちゃに曲を弾くうち、音楽へ開眼する深いテーマも隠れています。

科学書が面白い

20070716_03.jpg【市川】 次は、どちらの方向に進みましょうか。

【中村】 小説ではないですが、「講談社ブルーバックス」を紹介します。宇宙から動物、植物に至るまで中高生にも分かる科学書のシリーズです。有名な都筑卓司のベストセラー『四次元の世界』は、本当に読み応えあります。

【市川】 僕もかなり持ってますよ。

【中村】 多分、巻末の目録を見ると興味のわきそうな一冊が見つかると思うんですよ。『クイズ植物入門』なんて、どうでしょうか……うーん……『筋肉はふしぎ』。

【市川】 そういうの好きですね。

【中村】 『脳の探検』上と下。

【市川】 いいかもしれない。

【中村】 ほかには、なんだろうな……『ゴルフ上達の科学』。

【市川】 僕には無縁だな。

【中村】 『新しいリウマチ治療』。

【市川】 ……。中村さんは工業大学の出身ですね。理系の作家って、結構いらっしゃるんですか。

【中村】 いますね。例えば池澤夏樹さん。芥川賞受賞作『スティル・ライフ』(中公文庫)には、宇宙や素粒子の話を熱心に語る人物が登場します。

【市川】 宇宙と言えば……ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』を打ち合わせの時に名前を挙げましたが、少し読みましたか?

【中村】 もちろん。もう書き出しから、面白いですよね。

【市川】 少し朗読してみましょうか。

「この太陽のまわりを(略)まったくぱっとしない小さい青緑色の惑星がまわっている。この惑星に住むサルの子孫はあきれるほど遅れていて、いまだにデジタル時計をいかした発明だと思っているほどだーー」

【中村】 全編通してこの語り口。イギリス的なシニカルさに満ちている。

【市川】 地球の描写から始まるのに、最初の十数ページで地球は滅びてしまう。運良く生き残った男が、宇宙人と一緒に銀河を旅して、そのときに肌身離さず持っているのが、この「ヒッチハイク・ガイド」なんですよね。

【中村】 文庫が新しいので最近の本かと思ったら、新装版なんですね。1979年の小説でした。

【市川】 SFとしてアイデアが抜群ですね。とんでもない方向に論理が飛躍する点で、僕は今まで読んだ作家の中で彼が最も頭がいいと思う。

【中村】 宇宙から海へ進みましょう。アーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』は昔から好きでした。要約すると、年老いた漁師と子供が出てきて、漁師が海で大きな魚を捕まえて帰ってくるだけ。老人がライオンの夢を見るところで話は終わる。

【市川】 カジキマグロでしたっけ?

【中村】 何十日も取れない日が続き、ついに老人は、頭からしっぽの先まで18フィートもある大物を捕まえる。攻防の描写にものすごいカタルシスがあります。

【市川】 大きな海の生物に翻弄(ほんろう)されるアメリカの小説では、メルビルの『白鯨』(講談社文芸文庫ほか)を思い出します。子供のとき映画を見て、トラウマになりました。巨大な白鯨と戦って燃え尽きた船長が、鯨に結びつけられて、ずっと手を振っている。海は怖いものだと……。

自然の描写力

20070716_04.jpg【中村】 今回本を選んでいて、自分が好んで読んできた小説は、強度のある話や強い人物が出てくるものが多かったと、改めて気づきました。自分が書く世界は強い人そのものより、強さにあこがれる人物が多い気がしますが。

【市川】 そうですね。でも僕は中村さんの小説を読み、ある意志のようなものを感じます。海にまつわる話といえば、アンソニー・ドーア『シェル・コレクター』はどうでしたか? 表紙にあしらわた色鮮やかな貝も美しい。

【中村】 「シェル」は英語の貝殻のことで、そのコレクターということです。これもまた、やっぱり良かった。

【市川】 8短編が入っています。どれを読みましたか。

【中村】 最後の一編です。「ムコンド」。

【市川】 これ、いいっしょ。

【中村】 本当にいい。米・オハイオ州に住む古生物学者の男が、アフリカのタンザニアに化石の発掘調査で向かう。そのジャングルのような場所で、女性がただひたすら走っている。

【市川】 アフリカ現地の女性ですね。

【中村】 中年の学者はその姿を見て恋に落ちてしまう。中年太りだったのに彼女の走りについてゆけるように必死に鍛えて、命がけで求婚した末にやっと結婚できる。でも、そこからが大変なんです。

【市川】 彼女を連れて学者はアメリカに帰りますけど、アフリカの自然の中で育った女性は、文明社会になじめない。花が枯れたように生気がなくなってしまう。二人はすれ違い始め、結末は……秘密にしておきましょうか。

【中村】 原色に満ちている自然の描写が好きでした。

【市川】 走るときの疾走感。アフリカを取り巻く自然の色。読むうちに自分の五感が再生してゆくような印象を受ける小説ですね。この作家は語彙(ごい)が独特で、自然に触れてきた人だと感じます。単に花の名前を知っているのと、実際に花びらに手を触れ、匂(にお)いをかいだ人が書くものの文章は違うと思う。

【中村】 確かにそうですね。

【市川】 走る喜びも知っている人だと思うな。僕も今も現役で、陸上競技をやっているから分かります。

小説は考える窓

【市川】 走る小説といえば、ロン・マクラーティの『奇跡の自転車』もいいですよ。

【中村】 同じ走る小説でも、こちらは自転車。

【市川】 この小説の主人公は、「ムコンド」の学者と雰囲気が似ていて、中年で体重が126キロもある。ある日、両親が交通事故で死んで突然一人ぼっちになった彼は、ガレージにあった自転車に乗って西へ向かうんです。20年前に行方不明になり、訃報(ふほう)の連絡が届いた姉の遺体を引き取るために、アメリカ大陸を横断してしまう。

【中村】 今度は陸の冒険だ。

【市川】 翻訳者の森田義信さんが、僕は好きで、ニック・ホーンビィの『ハイ・フィデリティ』(新潮文庫)など、英米のポップな小説を軽やかに訳すのが特色。僕は訳者を見て小説を買うことも時々あります。この主人公は少し誤解を受けやすい人格で、善意のことを悪意に取られたり、拳銃で撃たれたりもする。誤解されやすい人間の、思考パターンみたいなものを感じる面白さもあります。

【中村】 本当に読んでいてハラハラする。

【市川】 簡単に一緒には扱えませんが、マーク・ハッドン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』は、数学や物理では天才なのに、他人とうまく付き合えないアスペルガー的少年が主人公です。子供独特の語り口で、彼の思考のパターンがやはり描かれている。

【中村】 他人の気持ちが分からないのですか。

【市川】 小説の冒頭には、人の顔を書いた絵が出てきます。彼は他人の感情が分からないから、この絵を見ながら、相手の表情と感情がどのように関連するか勉強しなくてはならない。

【中村】 すべて理詰めで、厳密に判断してゆくんですね。

【市川】 「全世界で1千万部」と帯にあるけれど、文体も難しいのに驚かされます。

【中村】 普通の作家が、そのような症状を持つ人間の内面を書くのは、すごく難しいだろうなと感じます。作家としては、リアリティーをうまく出せるのか、フェアに書けるのかとも考えます。

【市川】 地球上には、物の考え方や感じ方が違う、多様な人間がいる。そのようなことを考える窓として、小説を読むことがあってもいいのではないかと思います。

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まず手に取ろう

【中村】 今日は会場に女性の方が多いですね。それで最後に恋愛小説を紹介しようかと。平岩弓枝さんの『下町の女』(文春文庫)です。東京・下谷あたりの滅びゆく花柳界を舞台に、母と娘の親子関係や人情が絡んでゆく。恋愛小説だと言うと、違うという人がいると思うけど、やはり恋愛の小説です。何回読んでも泣いてしまいます。

【市川】 中村さんのツボなんですね。

【中村】 ぜひ、手に取ってほしい。それから最近読んだ恋愛小説では、山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』は面白かった。

【市川】 数十分で読み切りました。すごく読みやすい。

【中村】 主人公で19歳の「オレ」が、20歳年上の美術専門学校講師とつき合った日々を描いている。「布団の国の王様とお姫さまの気分で眠った」など文章がきれいで、高感度なセンテンスが連続している。でも、取っつきやすいですよ。

【市川】 そうだと思います。

【中村】 日本の文芸は今、若い人にも手に取りやすいものが増えていると思います。若手からベテランまでいいものが書かれている。どこから入っていけばいいか分からないかもしれないけど、少しでも引っかかることがあったらページを開いてほしい。

【市川】 小説って、どんな読み方をしても構わない。僕のように翻訳小説ばかりでも、日本の小説中心でも、両方読むのもありだと思う。翻訳作品にはたまに修飾過多で重ったるいものもあるけど、逆にはまる人もいる。食わず嫌いになってほしくはない。

【中村】 市川さんはSFをよく読むと言われたけど、一つのジャンルを詳しく読むやり方が広い世界に通じることもありますね。

【市川】 僕の場合は偏った読書遍歴だけど、それでいいと思っています。教養としてだけでなく、娯楽としての小説、現実逃避としての小説だってある。

【中村】 もっと自由で、果てしない広さを持つもの。それが小説です。

(2007/07/16)

市川拓司(いちかわ・たくじ)
1962年東京都生まれ。独協大卒。インターネットで発表した小説が話題となり、02年『Separation』でデビュー。03年発売の恋愛小説『いま、会いにゆきます』はミリオンセラーに。同作のほか『恋愛寫眞』『そのときは彼によろしく』など映像化作品も多い。
中村航(なかむら・こう)
1969年、岐阜県生まれ。芝浦工大卒。2002年『リレキショ』で文芸賞を受けデビュー。04年に『ぐるぐるまわるすべり台』で野間文芸新人賞を受賞した。著書に『絶対、最強の恋のうた』など。07年9月、『あなたがここにいて欲しい』を刊行予定。
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