本への批評、本に息吹 佐野眞一さんら語る〜関学大で「活字文化公開講座」

熱い活字論、鋭い指摘 学生ら納得、感心

20030601_01.jpg 西宮市の関西学院大で31日開かれた「活字文化公開講座」(主催・活字文化推進会議、関西学院大)。会場に詰めかけた学生や社会人約220人は、ノンフィクション作家の佐野眞一さん(56)らが語る活字論に熱心に耳を傾けた。

壇上の佐野さんは、ワイシャツを腕まくりし、時にキーワードを黒板に書きながら熱く語りかけた。

「人の気持ちを読んだり、危険を察知したりするという人間としてのあらゆる力が減退している」と指摘し、「本の中にすぐに解を求めるのではなく、多くの疑問が詰まった本を見つけることが重要」「言葉は重い。自分は1万トンクラスの言葉をピンセットで挟むように言葉を使っている」などと、本や言葉との向き合い方をアドバイスした。

また、宮原浩二郎・関西学院大教授(知識社会学)は「知性の中流化が言葉の記号化につながっているのではないか。単に伝えるための言葉ではなく、自分の内臓感覚を表すような言葉を持つことに価値がある」と語った。

参加者から寄せられていた「子どもに本に親しんでもらうには」との質問に、佐野さんは「良書幻想を捨て、いわゆる大人がいいという良書を薦めないこと」などと答え、会場の市民をうならせるひとこまも。

神戸市東灘区の同大学4年早川俊輔さん(23)は「佐野さんの話を聞き、読者も本に書かれた言葉を相当の覚悟を持って受け取らなければならないと思った」と話していた。

基調講演「本が蘇(よみがえ)るために」/佐野眞一さん

読むということの意味

普通、「読む」というと活字を読む、あるいは本を読むというふうに使いますが、実は他のものも読んでいます。人の気持ちを読み、気配も読みます。いま若い人の読む力が大変減退していると言われています。単に本を読まないというレベルの問題ではなく、人の気配も景色も読めず、危険も察知できない、人間としての本質的な力が、どうやら減退にさしかかっていると思います。若い人が本を読まない理由は、単に活字離れではなくて、人間の身体論の領域にまで入り込んだ大きな危機だと僕は踏んでいます。

原因は2つあります。1つは、マスメディアの異常な発達です。我々は24時間、テレビや新聞から洪水のような情報にさらされています。このマスメディアから流れるもの、一般には情報といいますが、これは記号であって言葉ではありません。記号は大変便利なもので、日本語である以上、北海道から沖縄まで一瞬にして流通します。しかし、一人一人の心の中に感動を与え何かを考えさせる力は、記号にはありません。記号と言葉は違います。例えば、小泉総理が何万回となく使っている「構造改革」。一言でこれを説明できないが、何となく分かったような気になっています。言葉ではなく、こういう記号が我々の周りを取り巻き、記号の海の中で溺れかかっているという状況があります。

もう1つは、インターネットに代表される情報革命です。これは大変便利な反面、危険性というか弱点があります。僕は物を書く前に膨大な情報を集めます。インターネットの情報探索というのはミサイルです。自分が欲しいと思う情報にいきなり着岸してしまいます。速さというものも確かに必要です。しかし、本当に自分はこの情報が欲しいのだろうか、欲しいとするなら何故だろうということを、絶えずフィードバック出来ないようなら、それは本当の情報ではないと思います。ミサイル型ではなくヘリコプターのように、自分が欲しいと思う情報の上空をホバリングし、その中で自分とその情報との関係を考えることが必要です。ですから僕は、インターネットはやりません。便利なことはよく分かっていますが、必ず図書館へ行きます。

出版業界がクラッシュしても本は死なない

以前、日本文芸家協会から本について話してほしいと頼まれ、基調講演で日本の出版産業は間違いなくクラッシュアウトすると思うけれども、本は決して死なないと言いました。僕が言う「本」は、必ずしも紙の本だけではなくて、いわゆるデジタル、電子本といいますか、そういうものも含めて考えています。

いまの出版不況の要因は、大きく分けて2つあります。1つは長引く大不況で、もう1つはグーテンベルク以来の大改革の波が目の前に押し寄せていることです。大不況で可処分所得が少なくなり、本に向かう層が激減しました。一方、日本の出版界の背骨を担うドル箱だった、地図や冠婚葬祭用の結婚スピーチ集、金魚の飼い方などの実用書は、100円ショップのダイソーに取って代わられました。100円ショップで村上春樹の本が買える日が来るかもしれません。これは冗談ではないのです。500年前の本はヒツジの皮に筆で書きましたが、グーテンベルクは活版印刷の技術を発明し、紙という劣悪な素材にインクの染みをつけ、複製でき携行も出来るようにしました。この本を見たグーテンベルク以前の人々は「何という破天荒なことをするんだ。そんなものは本ではない」と言ったそうです。電子本であるとか、画面で本を読むなんて到底出来ないと僕には思いますが、それを受け入れなければ、僕自身がグーテンベルク以前の人間になってしまいます。そういう電子の世界が間違いなく、いま入ってきています。僕自身たくさんの本を持っていますが、それがどんどん電子本に置き換わり、情報も紙の本以外のものに頼っています。

電子本とデフレによる100円ショップに代表されるものが相まって、我々の世界に来ていることが出版不況の本質です。企画がないとか、何かヒットを出せば解決できるという問題ではないのです。日本の出版界はそれに何ら対応出来ず、制度疲労に陥っています。いまの形では間違いなくクラッシュアウトするでしょう。しかし何度も言っているように本は死にません。人間というのは、ある種、非常に保守的な動物です。本の中から我々は知識や情報や感動などを得てきましたが、あるいはそれが電子になっても、そういう振る舞いを手放さないと思います。

本を殺しているのは読者です

20030601_02.jpg それでは、今後、どうやって本をよみがえらせるのか。新しい形の出版流通を考えると同時に、読むことに向かっての修練といいますか、我々の鍛錬といいますか、読者も読者で鍛えていかなくてはいけません。僕は3年前に『だれが「本」を殺すのか』と言う本を書きましたが、「本を殺しているのは著者か書店か取り次ぎですか」とよく質問されました。誤解を恐れずに言えば、本を一番殺しにかかっているのは読者だと思います。

「アミューズメント」と「エンターテインメント」という言葉があります。皆さんは両方とも「娯楽」と訳すると思いますが、それは違います。アミューズメントの語源はギリシャ語で、ミューズというのは美の神様という意味です。語源的にミュージカルとか、ミュージアムとかに派生していきます。ギリシャ人は哲学にふけったり自分の肉体を錬磨することに忙しく、その他のことはすべて奴隷にやらせていました。美術や音楽は奴隷の仕事でした。つまり、アミューズメントというのは貴族のための暇つぶしで、日本語に訳すと暇つぶしという意味です。

それではエンターテインメントはどうか。エンターというのは英語で、中に入るということです。テインというのはステイン=槍です。中に入って槍で突き刺すということです。日本語にあえて訳せば、無我夢中ということでしょう。いま日本の出版界ではエンターテインメント、つまり無我夢中になる本が少なくなっています。エンターテインメントというと、皆さんは宮部みゆきや西村京太郎らを思い浮かべるかもしれませんが、僕の言うエンターテインメントは違います。高村薫の『春子情歌』は成功した作品とは言えませんが、十分エンターテインメントです。小熊英二の『<民主>と<愛国>』や、昨年死んだ脚本家の笠原和夫の『昭和の劇』も非常に無我夢中にさせます。こういう本が少なくなり、あまりにもアミューズメント傾向になっています。悪貨は良貨を駆逐するといいますが、昨年1年間で出版された7万点の中に、アミューズメントをエンターテインメントと僭称している本が、洪水のようにあふれています。

先ほど読者が本を殺していると言いましたが、一人一人の読者というよりも、むしろ日本の学校教育に問題があると思います。学校で教えているのは、全て解のある情報です。誤解を招く表現かもしれませんが、いい本というのは解のない本、疑問がおびただしく詰まっている本です。ところが、マスメディアから流れてくる情報は、一見、解がある情報です。とりあえずの解はこれだよと言いながら、次々と情報を流しています。そういうところに我々、読者が馴致されているという構造があります。読者として一番必要なことは、解を求めずいつも疑問を持っていることです。疑問を持つことは不安定ですから大変苦しいのですが、不安定な状態に自分を置くことこそが、いい読者の条件だと思ってください。

大文字ではなく小文字の世界に接して欲しい

もう1つ言わせてもらえれば、大文字ではなく小文字なのです。アンドレ・パザンという有名な映画評論家でドキュメンタリー理論家が、自分は捕虫網を使わず素手でチョウチョウを捕まえると言っています。捕虫網というのは僕が言う大文字であったり、構造改革という通り一遍の便利な言葉です。大文字に頼ったほうが楽だから、我々はどうしても大文字に頼ってしまいます。小文字で生きていくのはしんどいんです。自分が読者であり続ける、あるいは本と関わっていきたいと言うのであれば、小文字の世界で、ぜひとも接して欲しいと著者として僕は思っています。僕はノンフィクション作家ですから、素手でチョウチョウを捕まえます。手の平でまだ羽ばたいているチョウチョウの鱗粉を見せることが、僕の仕事だと思っています。そういう形になったものが「本」で、それ以外のものは「本」とは呼べないと思っています。

本を生かすのも殺すのも読者です。こんなつまらない本をいつまで出しているのかと思えば、買わなければいいのです。別に不買運動をしろとかということではなく、そういうことだと僕は思います。

(2003/06/01)

佐野眞一(さの・しんいち)
47年生まれ、東京都出身。出版社勤務を経てノンフィクション作家に。97年に民俗学者・宮本常一の評伝「旅する巨人—宮本常一と渋沢敬三」で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。主な著書に「遠い『山びこ』」「巨怪伝」「カリスマ 中内功とダイエーの『戦後』」「東電OL殺人事件」「だれが『本』を殺すのか」ほか。 
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