第7回活字文化推進フォーラム〜「優れた本から教養補給」

基調講演「本を捨てるな」

安藤忠雄さん(建築家)

人間は食べなければ単純に腹が減る。身体に栄養が足りなければ生きられない。けれど、心の栄養、教養は、足りずとも生きていけ る。大学卒業後、社会に出てから、しっかり考えねばならない内容のある本を年に3冊も手に取る余裕のある人は少ないだろう。今の日本人は、物質的には豊か でも、心の栄養失調に陥っていないか。

考えに奥行き生まれる

中高年で出世競争に励まざるを得ない、多くの男性サラリーマンに比して、現代では、家庭を守る女性の方が、よほど文化的暮らしを楽しんでいる気がする。文明の発達で家事から解放された自由がゆえに、心の飢えを満たす教養の大切さを思うのだろう。男性は、定年後の生活が始まって初めてそれに気付く。今のうちから、忙しくとも、せめて活字に親しむ時間くらい持つべきだろう。

私は、美術館をつくったり、植樹活動に取り組んだりしている縁もあって、よく瀬戸内海の島々に行く。ある時、豊島(てしま)の小学校へ行って驚いた。図書館に本がない。児童数に応じて国の交付税が決まっているので、児童が3、40人しかいない学校では、本を買うお金がないのだという。

私は、講演会や建築の視察で全国を回るたびに、必要でなくなった図書を送ってほしいと頼んだ。たちまち豊島には1万冊ぐらいの本が集まった。

皆さんに知ってほしいのは、本を読みたい子どもがいっぱいいる所には、読む本がない。逆に、いっぱい本のある都会の子どもたちはゲームに忙しくて、本を読む暇がないという現状だ。私は、むさぼるように本を読んでくれる離島の子どもたちの中から、日本を支えるような子が出てほしいという希望を持っている。

私は、20歳代のときに独学で建築の勉強を始めた。とにかく良い建築物を見て学ぶしかないと、ひたすら旅をしたが、優れた本との出合いも、想像力を働かせ、考え方の奥行きを深めるのにだいぶ役立った。

建築の専門書ばかりでなく、小説や思想書にも大いに影響を受けた。幸田露伴の「五重塔」は、自分が真摯(しんし)な姿勢でものづくりに取り組めば、必ずだれかが感動してくれると教えてくれた。和辻哲郎の「風土」には、その土地土地の地域性を読み取っていかないと、建築はできないとしっかり書いてあった。

多角的にみる力を養う

こうして、私は建築というものを学び、生き方を勉強してきた。学ぶことで、頑張ればやれるんだと、ずいぶん励まされた。

私は、ただ単に、「工期と規模だけで決まるビジネス」というのではなく、建築物をつくることを楽しみたい。現実に依頼されるものや目の前のものだけを考えていたら、何も生まれない。

様々な角度からものを考えることで、考え方に奥行きが生まれる。それが教養の力であり、そのきっかけを与えてくれるのが活字だ。一冊読むことで、たくさんのことを読みとれる文学のような建築物をつくりたいと思っている。

建築をやっていると、あちこちで、文学者や研究者たちの記念館をつくる幸運に恵まれる。

大阪では、司馬遼太郎記念館をつくったが、司馬さんの書斎をのぞいた時、これまで司馬さんが読んでこられた本の量に圧倒された。書斎を歩きながら、司馬遼太郎が読んだ本を全部一堂に展示することによって、司馬遼太郎が考えた以上のことを、訪れた人が考えられるような文学館にしたいと考えた。

司馬さんは、人間はともかく生きている間は考え続けなければならないと書いている。私も同感だ。

4年ほど前に、ある企画で、100歳のおばあさんと話をした。

このおばあさんは「わたし今でも本を読んでいる」「新聞も読んでいる」と言っていた。「日々勉強だ」と話す顔は、しっかりとしていて、美しく年をとられたのだろうと感じた。

そして、目を見ると、「まだまだ生きるぞ」という気持ちが伝わってきた。「100歳まで自分なりの人生を送れたのは、本のおかげ」と言ったおばあさんの生き方に、我々は学ぶべきだ。

安藤忠雄(あんどう・ただお)さん
1941年、大阪府生まれ。東大名誉教授。79年に「住吉の長屋」で日本建築学会賞。95年には建築界のノーベル賞と称される米・プリツカー賞を受賞。 2003年、文化功労者。

パネルディスカッション〜「すてきな読書空間づくり」

パネルディスカッションでは、作家や図書館の活用を進める専門家ら4氏が、「すてきな読書空間づくり」をテーマに、図書館の重要性や家庭での読書などについて語り合った。(コーディネーターは橋本五郎・読売新聞東京本社編集委員)

■パネリスト

ira_ishida.jpg 石田衣良(いしだ・いら)さん
作家。1960年、東京都生まれ。成蹊大卒。広告制作会社、フリーコピーライターを経て、「池袋ウエストゲートパーク」でデビュー。2003年、「4TEEN」で直木賞。他の作品に「1ポンドの悲しみ」など。
tadayoshi_takawashi.jpg高鷲忠美(たかわし・ただよし)さん
八洲学園大教授、全国学校図書館協議会理事。1941年、広島県生まれ。東京学芸大卒。専門は図書館学。共著書に「資料組織法」「新学校図書館入門」「こうすれば子どもが育つ学校が変わる」など。
nobukazu_nagai.jpg>永井伸和(ながい・のぶかず)さん
今井書店グループ会長。1942年、鳥取県生まれ。早稲田大卒。家業を継承し、「本の学校」などで鳥取から情報発信。共著書に「いま、市民の図書館は何をすべきか」。1991年にサントリー地域文化賞を受賞。
mari_yonehara.jpg米原万里(よねはら・まり)さん
作家。元ロシア語通訳。1950年、東京都生まれ。東大院修了。「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」で読売文学賞・随筆紀行賞、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」で大宅壮一ノンフィクション賞。

環境づくりの原点は家庭

――本を読みたいという雰囲気、環境をどうやってつくればいいのか、ということについて議論したい。まず、学校を舞台にした環境づくりには何が必要だろうか。

図書館が教育の中枢/高鷲

  高鷲 山形県鶴岡市立朝暘第一小学校は昨年、全国学校図書館協議会の学校図書館大賞を受けた。子供たちは年間で1人平均127冊も図書館から借りている。授業を参観して驚いたのは、2年生でさえ、どんな本が書架のどこにあるのかを知っていることだった。

この学校が、図書館を中核に据えた教育を始めて10年目になるが、約9割の子供が「学校生活は楽しい」「授業がよく分かる」と答え、全国標準テストでも国数が平均10ポイントも高い。学校が楽しくて、授業がよく分かれば不登校になりようがない。実際に不登校児もいない。

それには、やっぱり人が重要。三十数年の経験を持つ司書がいて、校長らが、読み聞かせと調べ学習など授業に図書館を組み込んでいる。

読書が子供たちを変えた。こんな現代の奇跡のような学校が増えてほしい。

【米原】 小学3年の時、父の赴任先のチェコスロバキアでロシア語の学校に入れられた。図書館の司書はおっかないおばさんで、毎回、本を返す時、「この本について話せ」と言う。感想ではなくて、読んだことのない人にも内容が分かるように話すことが要求される。ちゃんと説明できないと、「もう1度読んできなさい」。

これは、素晴らしいロシア語の訓練になった。あのおばさんに、内容を伝えるつもりで本を読むと、読み方がすごく立体的になるし、速くなる。私が通訳になってからも役に立った。ずっと後になって、脳は出力モードだから、話したり書いたりして「出す」ことで、内容が頭に「入り」やすくなると、知って納得した。おばさんに話した本の内容、今でも覚えているもの。

読書知識こそ実利的/石田

【永井】 私たちが提案した鳥取県の「心のふれあう感動の図書館」事業では、司書を本との出合いのプロデューサーと位置づけていた。小さな県でも特色ある取り組みを行っていることを紹介する。

一つは、司書教諭を全校に配置したこと。司書教諭は、ほとんど兼任だが、週に5時間は図書館教育に専任できるようにもした。県立高校には正規の図書館司書を採用して配置したし、各市町村でも2分の1を県が助成することにしてモデルの小、中3校に正規の司書を置いている。

【石田】 アメリカでは学校の中心に図書館があり、専門の司書がいる。理由は、アングロサクソンが実利的な民族だからだ。情報を扱うことが産業の中心になり、言葉の力を持っていることが、いかに強いかを知っている。

生涯学習とか、教育とかいうだけでなく、本をちゃんと読むと金がもうかると思っているからこそ、アメリカ人は図書館を大事にする。

今の大学生、本当に本を読まなくなった。せめて月2、3冊はノルマとして読んでほしい。読書の知識で、相手がグラッとくるような殺し文句が吐けるかもしれない。就職試験の面接でも、ガールフレンドにも効くんだから、こんなに役に立ち、実利的なものはない。

―― 一番大事なのは、本そのものではなく、本と子供をつなぐ先生の情熱のような気がする。

【高鷲】 鶴岡の小学校の先生たちは、よく子供の本を読んでいる。何かあった時、説教じゃなくて本を読んで子供たちに考えさせる。読み聞かせを担任がやるから、子供たちがのめり込む。子供が喜べば、先生もますますやる気になって、授業にも取り込む。それが家庭にも浸透する。

全国の先生たちには、足しげく図書館に通って本を読んでほしい。でないと子供に本を勧められない。

【永井】 「朝の読書」の実施率は鳥取県が日本一だが、あるテーマの本が図書館に1冊しかなかったり、古い本が多かったり。一般的に教育委員会や校長先生たちの意識には、慣性の法則が働いていて、従来のやり方を変えるというのは容易じゃない。ここは、官も民もボランティアも一緒に汗をかいて、楽しい時間を過ごせる図書館という空間を作り上げ、地域に広げられたら、と思っている。

6割知的な“無医村”/永井

――日本の公共的な図書館の閉館時間は、最近の調査によると午後6時以降が35%、7時以降20%、8時以降6%だが、役所の退庁時間に合わせて閉館するというところも随分ある。夜昼逆にしろと言うわけではないが、勤め人には利用しにくい。

【永井】 本来、公共図書館はコンビニエンス(便利)な存在であるべきで、ポストの数ほど必要とも言われる。日本では、それには程遠く、諸外国とは数が一ケタ違う。町村の6割以上は、図書館がない知的な“無医村”だ。

イギリスで始まった「ブックスタート」という運動があるが、ゼロ歳児健診の時に、公共図書館員が母子に絵本を与え、同時に図書館に登録して、慣れ親しんでもらう。だれでも平等に、本との出合いの機会を与えるということが大切。これからは親子に孫も加えた3世代、「生涯読書」の時代ではないか。

【高鷲】 いつも学生に、図書館は究極のサービス業だと言っている。百貨店なら、閉店時間が決まっていても、「帰ってください」とは言わず、「いらっしゃいませ」と中に入れて、帰りは従業員用の出口から出てもらうものだ。それが当然だと思う。

公共図書館は19世紀半ばに米英で生まれたが、だいたい夜の9時まで開いていた。東京のある図書館員に聞くと、日本も戦前は夜までやっていたが、戦中、戦後の電力事情の悪さで短縮したという。

それに問題だと思うのは、ベストセラーをいっぱい並べていること。「世界の中心で、愛をさけぶ」の蔵書20冊、275人待ちなんて図書館もある。出版界とよく検討する必要がある。

【石田】 公共図書館の限られた予算の中で、全部とは言わないが、今の時代の文化を丸々持ってくるような気持ちで本をそろえてほしい。ベストセラーばかり、一つの図書館で10冊、20冊と入れるやり方はスペースもお金ももったいない気がする。

【米原】 文化は一代限りではなく、継承されることで発展、成熟していくもの。だから高くて手が出ないが、文化的に価値のある本を蓄積してほしい。今の人に爆発的には読まれなくても、10年先、50年先、100年先にも読まれるような本を書く著者がいる。それを公共図書館は蓄積していく責務がある。建物は立派なのに、蔵書がお粗末じゃ、かっこいいのに、しゃべるとつまんない男みたい。

胸を刺す1冊との出合い

――やはり読書環境づくりの原点は家庭ではないか。

【石田】 うちは東京の下町の商売人の家だったので、自宅にたくさん本があったわけではない。けれど、兄弟の中で僕だけが、なぜか異常な本好きになってしまった。

その理由だが、本の数の多少ではなく、過去に1度でも、自分の胸にちょっと深く刺さる本に出合うことが大事だと思う。それがあれば、勉強のために読書をしろとか何とか言わなくても、子供のうちから本を読むようになる。その最初の一刺しをどうするか、それを親は子供たちと一緒に考えるといいのではないか。子供に、読め読めというばかりではだめで、まず親の方が一刺しを経験しなければ。

特に、中年男性に頑張ってほしい。かっこいいお父さんは読書好き。そう思って、ちゃんと本の話をすれば、きっと子供も読んでくれる。

【米原】 両親から読書をすすめられたことは1度もない。それが良かったのかもしれない。そもそも本は、学習とかではなく、もっと不純な動機で読むもの。小学校高学年のころ、セックスについて無性に知りたくなった時、読書量が飛躍的に増えた。

親に聞くのは恥ずかしいし、先生は絶対に話題にもしない。それがふんだんに載っているのが文芸書だった。日本と違い、子供用に性描写をカットしたダイジェスト版はないから、「三銃士」にも「ああ無情」にも濡(ぬ)れ場がいっぱいあった。夏休みには「アンナ・カレーニナ」や「千夜一夜」全13巻を読破した。

性の目覚めは人間の種としての存続がかかっているから強烈で、難解な語も分厚いページ数も読破させる。その時身につけた読書癖と速読術は一生の財産になった。

【永井】 私が、おやじという存在を理解したのは、父親の本棚を見た時に、何か父親の心の中を見たような気がしたことが最初だ。あるいは、父親が書き残したノートなどが本棚の間から出てきて、父と母の青春を垣間見たような気持ちになったこともある。ところが、そういう本棚のある家が、だんだん少なくなっているような気がする。いわゆる親子のコミュニケーションや本と出合うという意味で、やはり本棚は大切だったなと感じる。

本の中に様々な人生/米原

――最後に、これだけは言っておきたいということがあれば。

【米原】 小説を書くために、スターリン時代に強制収容所へ入れられた女たちの手記を段ボール2箱分も読んだことがある。1番つらかったのは、1日12時間の労働でも、寒さでもひもじさでもなく、本も新聞も読めなかったことだと書かれてあった。

真冬の晩、外気はマイナス30度にもなるバラックの暗闇の中、ある女が昔読んだ本の朗読を始める。トルストイの「戦争と平和」の第一章だった。へとへとに疲れた女たちが、毎晩、一章ずつ記憶の中の本を「読んで」いく。かつて読んだ時には暗記するつもりもなかった本が、極限状態の中で、記憶の表層に浮かび上がってきて、大長編を再現してしまうのだ。

すると不思議なことが起こる。女たちが目に見えて元気になっていく。本の中には様々な人生が凝縮されていて、それに誰もが励まされるのだろうと思う。

人生に影響与えた本は

――読書人生に影響を与えた本をお聞きしたい。

目の前の本 面白くて読み続けた

【石田】 膨大な量の読書をしたとか、立派な本を読んだということはない。ともかく目の前にある本が面白くて、そのまま読み続けてきた。

最初に「これは面白い」と思ったのは、地底の世界にいる恐竜と冒険家が戦う小説。レベル的には「ウルトラQ」や「ウルトラマン」と同じだが、面白おかしい本を書いて、仕事になるのは素晴らしいと、7歳の時にはもう作家になりたいと思っていた。“勘違い”して、そのまま35年以上たってしまった。

本で影響を受けた作家はいない。そもそも、特定の作家にあこがれて同じような作品を書いてしまう人は、プロにはなれない。将来作家を目指している人は、いろんな人の声をたくさん浴びるように読んでみるのがいいと思う。

趣味が仕事で楽しい

【高鷲】 何もない時代に子供時代を過ごし、島根県の山村に疎開したこともあって、うちにあった古い本、父や祖父が昔々読んだ本を片っ端から読んだ。少年時代には、古本屋で「少年倶楽部」を10円ぐらいで買って読んでいた覚えがある。

学校図書館とのかかわりは、札幌で通っていた中学時代から。学校図書館法が出来た時のモデル校で、週に1度、「図書館の時間」があって、司書がどういうふうに本を読んで調べるか、指導してくれた。そこで道を踏み外したことが、今の仕事につながっているが、趣味を仕事にできて、楽しんでいる。

児童文庫活動始めるきっかけに

【永井】 小学校4年生ごろ、先生が石井桃子さんの「ノンちゃん雲に乗る」を給食の時に読んでくれるのを楽しみに学校へ通っていた。私の名前が「のぶかず」で、何となくボーッとしていたため、男の子なのに「ノンちゃん」と呼ばれた。

書店員になってから、石井さんの「子どもの図書館」を読んだ。この本は、「図書館は本屋にとって天敵ではないか」と思っていた私が、いつの間にか、図書館の振興も含めた児童文庫活動を始めるきっかけになった。

「人魚姫」に自分重ねた

【米原】 転校したチェコの小学校では、最初全くロシア語がわからず、通うのが地獄だった。そのころアンデルセンの「人魚姫」を読むと、涙がポロポロ流れた。伝えたい思いがあるのに言葉にならない人魚姫が、自分自身と重なったのだろう。

「箱根用水」と漢字で大書きされた表紙の本を見つけた時は、異国で同胞に会ったように強く抱きしめた。中身はロシア語だったが、「ああ懐かしい日本」という思いでページをめくると、不思議なことに読める。どんな言語も、40%ほど分からなくても前後関係で分かるものだ。それからロシア語力が飛躍的に伸びた。

兄弟げんかもロシア語になって、日本語を忘れそうになったころ、日本からの船便で講談社の「少年少女世界文学全集」全50巻が届いた。最低20回、ボロボロになるまで読んだ。本のおかげで、ロシア語を身につけ、日本語も忘れずにすんだ。本は最高の先生。

――いろんな本を読んだという知識と、小説を書くということとの関係はあるのか。

【石田】 知識はあるに越したことはないが、1度目を通して読んでしまえば、忘れても大丈夫。必ずどこかで残って生きている。読書量が少ない作家は、仕事としてやっていくのはきついと思う。

【米原】 確かに、1度だけは自分の人生を語ってきらめくことができても、ずっとプロでやっていくのは難しい。

(2004/07/27)

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