大阪大学で活字文化公開講座、養老さん「音読のススメ」

基調講演「読書の解剖学」/養老孟司さん

目、耳、手で言葉を捕らえる

20031109_01.jpg 言葉というのは、3通りの感覚で捕らえることが出来るんです。1つが目です、文字を読む。それから耳で聞くというのがあります。もう1つ、手で触るというのがあるんです。手で触っても言葉ということは、一般の方はほとんど意識されていないんですね。だけど、麻雀をやる人は少し慣れてくると、模牌でかなりきちんと指先で、区別がつくということを体験されていると思います。言葉が入ってくる時に、3つの感覚ならば大丈夫だけど、残りの2つはどうか。五感のうち触覚と視覚と聴覚は100%、大脳の新皮質へ入ってきて言語をつくることができます。しかし、味覚と嗅覚の50%は大脳辺縁系に入ってしまい、50%だけが新皮質に入ってきます。半分しか入ってこないものは言語をつくれない。においとか味とかは、言葉を作れないけれども我々に根本的な影響を与えておりまして、それがお袋の味であったり、古里のにおいであります。辺縁系というところは、感情に強く絡んでいる部分でありますから、においとか味とかいうものは、むしろそういった懐かしさとか、我々が根本的に持っているような、基本的なところに訴えてきます。それに対して、もっと理性的な部分に訴えてくるのが、聴覚言語であり、視覚言語や触覚言語であるということになります。

20031109_02.jpg それが、言葉というものを解剖する時の、一番基本的な話であります。言葉というものを、もし脳で説明するならば、感覚から入ってきて運動から出ていくわけです。その間に挟まっているのが脳みそで、その中で何か計算していると思っていただければいいわけです。つまり、脳はコンピューターであります。入ってくるほうは、乱暴にいえば五感ですから、言葉はそのうち3つの感覚を使うことができます。そういった3つの感覚は、いわゆる文節性と呼んでいる、典型的な私どもの言語を操ることができます。

これに対して、もう1つ大事なのは出ていくということです。出ていく方から考えますと、おしゃべりは、この辺を運動させて音を出します。それから文字言語は手で書きます。あるいは、現在では、キーボードをたたいて打ち込んでいますね。のど以外のところでは、基本的には手を動かしてやっています。触覚言語は普通使いませんから、点字をつくるのは機械でやってますな。もちろん穴をあけるような形で、手でやってもいいんですけれども、出るほうは比較的注目されていません。でも、ともかく入って、出ていくんです。

音読することで読書や勉強が進む

基本的には言葉、つまり音声言語と聴覚言語は、出るほうに注目するか、入るほうに注目するかの違いですね。今、私はしゃべっていますが、このしゃべった音は、皆さん、ないしは私の耳に入って脳に影響を与えます。そして次の話が出て、またそれが脳に入ってと、ぐるぐる回ります。私はこれが、脳がやっていることの一番基本的な作業だと申し上げたいんです。多くの方が、脳みそ、特に読書というと、入ったきりと思っているんじゃないかと思うんです。つまり、読んで頭の中にどんどんためると。頭が破裂するって感じしませんですか? 私は子どものころ、「本ばかり読んでちゃいけない」としょっちゅう言われました。あれだけ言われたんだから、それには根拠があるはずです。読むとどんどん入るけど、出ていく方はどうなっているんだと、暗黙のうちに促されていたんだろうと思います。

20031109_03.jpg ですから、子供たちに本を音読させるということを今、改めて始めています。つまり読んで音にする。これをやりますと、子供が本を読むようになるし、それから、いわば勉強するようになるんですね。これは、脳から考えると、全くの当たり前という気がしてくる。なぜかというと、今申し上げたように、音声言語っていうのは、声を出して、その声を自分で聞いているんですわ。出しては聞き、出しては聞きと、こうやって回すことが、脳の根本的な働きです。声に出すことは非常に大事だということです。昔は初等教育の国語の本を「読本」と言いましたもんね。つまりは読み本ですわ。

僕は、国語の先生が集まった会では、必ず国語は体育だと言うんです。だって筋肉を動かしてますもん。そうでしょ。しゃべるということは、まさにそういうことです。それで、しっかりご理解いただきたいのは、人間が外の世界に対して出すことが出来る、つまりさっき申し上げた出力ですな、出力は筋肉、骨格筋の動き以外にないということです。僕が若いころは筋肉労働とか肉体労働という言葉が、堂々と通ってました。肉体労働でない労働は、実はないんです。

数学者が物を考えるだけで、最終的にその結果を鉛筆か何かで書いておかないと、誰も認めてくれません。さもなければ、結果を声に出して説明して、誰かに聞いてもらって、わかってもらわなきゃ、やったことになりませんから。我々がやっていることは、根本的に肉を動かしていることです。ところが、教育の世界では普通、筋肉を動かすのは勉強じゃないと思っている。だから、うっかり本を読みなさいとか言ったって駄目ですね。誤解される可能性が非常に高い。大事なことは、その読んだ結果が、どういう形で筋肉の動きになるかということなんです。

ばかなのは長嶋さんか学生か

20031109_04.jpg 筋肉の動きというと、それは頭を使ってないんじゃないかという疑いを持っている方がほとんどですね。だから、僕、北里大学で、よく学生に、「おまえ、長嶋さん頭いいと思うか」とか聞くんですね。そうすると、学生、ばかですから、すぐ「ばかだと思います」とか言うんです。彼の体を動かしているのは、脳なんですから頭がいいと言うしかないんですよ。ほかの人は、あんな、ピューッと来た球をパーッと打つって出来ないんです。ひょっとして勝手に筋肉が動くと思っているんじゃないですかね。とんでもないことで、脳が動かして、ピューッと来た球を打っている。つまり、知覚系に入ってくるわけですから、それを打つということは、出力するわけですからね。非常によくできたロボットと言ってもいいんです。

今、世界で一番売れている本というと『ハリー・ポッター』ですよ。世界で4億冊とか。じゃあ、読書に近いもので売れているものって考えると、アニメの『千と千尋の神隠し』ですね。2,000万とか3,000万という観客を動員したと言っている。何でハリー・ポッターみたいなばかみたいな話が、世界中で売れるんですか? アニメ、あのわけのわからん千と千尋の神隠しが、何でそれだけ人気が出るのか。誰でも行くでしょ、私も行きましたもん(笑)。面白かった。なぜ、アニメのほうがいいかというと、アニメで出てきた瞬間にこれはうそとわかっていますから、作り物ってわかっているわけでしょ。ハリー・ポッターのいいところは、初めからおとぎ話ってわかっているわけです。ないプラットホームから学校へ行くんですから。もうおわかりでしょ。舞台とか小説というのが、本来持っていた役目はそれじゃないですか。小説はうそだからいいんですよ。何で舞台の上でやったらお客が泣くんですか。隣の夫婦げんかみたいに皆さん泣いてますよ、そうでしょ。あれは作り物の中で、ある状況を出してやりますと、それが本当になるんです。つまり、うそから出たまことが本当なんです。

ところが、今の新聞なり放送、報道、いわゆる客観報道というのは、そこで明らかに誤解をしているような気がするんです。つまり本当のことを伝えていると言うんです。少なくとも、ニュースは本当ですという、パッケージに入れるんですよ。ところが、ニュースを見ていると、本当かうそか皆目わからないんです。ダイアナは殺されたのか事故なのか、誰も言わないんですもん。言わないように言わないように事実を報道する。そうすると、見ているほうに、ものすごい欲求不満がたまりますね。だから、そういうものは、もう見たくないんです。つまり、一番肝心なことがわからないように、客観的に報道するんです。それに疲れた人たちはどうするかというと、真っ赤なうそというパッケージに、すっと入っていきます。その中で、物語に引き込まれていくと、その中に絶えず真実を発見する。それをリアリティーという。

活字はうそだという世界で育った

人間の歴史の中で、最も大きく、そういった真っ赤なうそをつくことによって、人々を引きつけて離さないものは何か、もうおわかりじゃないですか。それが宗教でしょ。誰がまともに、天国だとか地獄だとかを信じるかと。だけど、そこから始めて、ずっとああいう話をすると、残りは全部本当になりますな。どこかに大うそをまとめておきますと、残りは全部、まともになってくるという気が私はするんです。今の日本人というか、むしろ世界の人が要求しているのは、本当のうそですな。読書って、実はそういうものを提供する面があるんです。

20031109_05.jpg 私は、大変幸いなことに、活字はうそだという世界で育ったんです。小学校2年生で終戦ですから。終戦の8月15日、おばが「日本は戦争に負けた」って教えてくれたんです。その瞬間に、私の中に起こったのは「だまされた」という気持ちでした。私より5、6年、もうちょっと上になると、異口同音に「助かったと思った」って言いますわ。どうせ戦争に行って死ぬと思っていたのにと。で、もうちょっと上になるとどうなるか。もう大人になってますから、戦争中にある程度いろいろなことをやってます。やったことを、戦後のあの考えの中で、どういうふうに合理化するかというので頭がいっぱいですから、私たちみたいな素直な感想は出てきません。我々の世代が唯一、あそこでだまされたと思っていたんです。

子供でしょ。だから、それはものすごくはっきり肌から入っちゃう。肌から入っちゃうって、どういうことかというと、社会で言ってることは、一切信用しては駄目というふうに入っちゃった。その後「不信」という言葉があるんですが、不信なんて甘いもんじゃないんですよ。信じるほうがおかしいという感覚。だから僕は、新聞はそう思って読んでます。全部うそでも絶対に驚かんという気持ちで、いつも読んでいます。教育がちゃんと保証をつけてくれたんです。どういう保証をつけてくれたかというと、先生に言われて、それまで使っていた国語の教科書に、我々は墨を塗ったんです。随分塗りました、半分以上黒くなりましたもん。そこまで教育すれば、印刷されたものなんか絶対信用ならんということは、骨身にしみてわかっちゃいます。

日本の教育に限らず、戦後根本の問題は、自分がやってきたことを否定したことですよね。自分のやってきたことを否定すると、根本的に何が正しいのかわからなくなるんです。だって、今ある自分の姿が、一体何によって立っているのかわかりませんからね。そうでしょ。戦前が間違っているとすると、戦前に育った人はどう考えても、間違ってることになっちゃいますから。だから頑張って、「正しいところもあった」とか言うんですが、そうはいきません。人間、正しいところもあったというふうに、自分を上手におさめることはできません。根本のところでは、やはり正しいとか正しくないの、どっちかしかないんです。

信じる、信じないということでいうなら、人間は何かを信じなきゃ生きていけない生き物ですよ。何事も信じないという信念を信じて生きるか、何かを信じて生きるか、いずれにせよ何かを信じていることに変わりはないんですよ。それが宗教だと言ったんです。戦後に限りません、日本の公教育は宗教を排除してますからね。そんな教育が、まともに動くわけがないって、こっちは思っています。戦前、間違ったことを全然信じてないならいいんですけど、間違ったことを信じるというのもあるでしょうけど、ともかく信じていることには変わりがないんですから。だから、私がずっと考えてきたことは、変わらないものは何だという話なんです。

言葉ほど当てになるものはない

本というのは変わらないんですよ。学問なんて進歩が激しいですから、10年前の本なんか使えない場合が多いんです。だから10年前の教科書を出してきて、この分野は進歩が激しいから、大分中身が新しくなったかなって、めくってみたって10年前と同じですもんね。活字はそのままです。考えてみてください、それがもう1つ、本のいいところですよ。いつ読んでも、論語は論語です。聖書は聖書です。そのことを意外に、今の方はお考えにならない。言葉なんて当てにならないという言葉を、聞きますもんね。ああいうふうに変わらないのを見たら、言葉ぐらい当てになるものはないと、思わなきゃいけないんですよ。

私みたいな不信の世代、何事も信じない世代からすれば、一番信じられるものは人間ではなくて言葉です。人間はひたすら変わっていくし、意見も変わりますが、論語の中身は一切変わりません。ですから、本というものはただの紙じゃないんです。でも、おそらく皆さんはそう思ったことないでしょ。あんなものって、古くなるとかですね。実は、本は古くなりません。だって書いていることは変わらないんですから。紙は古くなりますよ。今の本は酸性紙を使っていれば50年で消えてなくなるとか、言ってますけど、中身は消えませんな。読書のことをお考えになるなら、そこのところをもう1度お考えいただきたいと思います。

(2003/11/09)

養老孟司(ようろう・たけし)
東京大学名誉教授。神奈川県生まれ。東京大学大学院医学系研究所基礎医学専攻博士課程修了。医学博士。専門の解剖学のわくを超え、社会や文化に鋭いメスを入れる評論活動を幅広く続けている。著書に「唯脳論」「人間科学」「バカの壁」など。 
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