活字文化フォーラム「社会に生きる漢字の力」

基調講演 林真理子さん「私の小説と漢字」

手書きこその魅力

林真理子.jpg 実は原稿を書くのはパソコンではなく手書きです。まだ、手書きの人がいるのか、と驚かれるかもしれませんが、私のように恋愛小説を書く者は、人の心理の綾(あや)を機械に通すことに抵抗があるようです。

ただ、パソコンの影響は大きいですね。幾つか賞の選考委員をやっているのですが、最近は小説がすごく長くなる傾向があります。長いうえに漢字がとても多く使われています。これはパソコンの影響だと思います。肉体を通して書いたら、こんな漢字の多用はあり得ないな、絶対こういう時に漢字は使わないだろうな、と思うことがあります。

それぞれの小説には、適量の漢字というものがあるのではないかと思っています。例えば、家庭小説などは、多くの方に読んでいただかなければなりませんので、平仮名を多用します。だからといって、平仮名ばかりにしますと、文章の品格が落ちてくるんです。

明治の女子教育者で、有名な歌人でもある下田歌子のことを書いた「ミカドの淑女(おんな)」では、文章を格調高くするために、かなり難しい漢字を使っております。明治帝がトーストにジャムとバターをつけて召し上がって、コーヒーもお飲みになったと資料にも出ていますので、自分で一字一句、きちんと辞書を引いて、コーヒーもあの難しい「珈琲」を使っております。

そして、「夜明け少し前に、帝はお目覚めになった」という、王朝文学のような書き出しにしました。何かちょっといい書き出し……と思って、胸をわくわくさせたのを、昨日のように覚えております。

今も連載が続いております「六条御息所 源氏がたり」では、美しい漢字をいっぱい使っています。今まで使ったことのない漢字も多いですね。例えば「燭台(しょくだい)」「高欄(こうらん)」「簀子(すのこ)の上」……。「簀子の上」は廊下のことなのですけれど、これを廊下と書き変えないで、平安時代の名詞を使うようにしました。「源氏」を読む方ならもう分かっているものとして、一々説明はしないで、漢字の美しさを楽しんでもらおうと思いながら文章を組み立てています。

そして、書きながらつくづく思うのは、漢字による女性の美しさの表現が多様なことです。優美、優雅、典雅、妖艶。ありとあらゆる言葉が出てまいります。それを思うだけでも、外国にこんなすごい、すごい表現力あるだろうかと思うのです。

私は、ここで作家の意地を見せなきゃいけない勝負どきには、格調高い、美しい漢字の力を借ります。特に歴史小説を書くときは、漢字がいかに重要かということを本当に実感します。

漢字の魅力、漢字のすばらしさ。時には、漢字のほかは何も要らないと思うときがある。これも作家の実感です。そして、やはり漢字は手で書いてこそ、その重要性と美しさがわかるのではないかと思っています。

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◇林真理子(はやし・まりこ)作家
1954年、山梨県生まれ。コピーライターを経て、82年にエッセー集「ルンルンを買っておうちに帰ろう」を出版。「最終便に間に合えば」「京都まで」で86年に直木賞受賞。「白蓮れんれん」「ロストワールド」「下流の宴」など著書多数。

パネル討論

言葉は文化

【老川】 自己紹介も兼ね、まず好きな漢字を挙げていただきたいと思います。

【児玉】 自分自身がへこたれた時、私は小説を読んで、そこから勇気とかいろんなものをもらうんです。そんな私の心の中に浮かぶのは、「颯爽(さっそう)」の「颯」という字です。「颯」の文字を胸の中に描くと、今までしゃがみ込んでいた背筋がしゃんとする気がいたします。

【池坊】 私も本を読むことでたびたび救われてきました。だから、子供たちに本を読む喜びを知ってほしいという思いがあって、超党派の国会議員で「子ども読書活動推進法」を2001年に、また05年には「文字・活字文化振興法」をつくりました。本を読むことにより、想像力、洞察力、判断力、正義感といったものを、子供たちに知ってもらえるのではないかと思っています。好きなひと文字は「公平」「公正」の「公」かなと思っています。

葛西敬之.jpg【葛西】 生まれたのが昭和15年、小学校に入ったのが22年。敗戦後、漢字はなるべく減らしたほうがいいという空気があり、日本語はローマ字表記にすべきだという議論が、半ばまじめに行われていました。しかし、言葉はその国の文化、歴史を表しているものです。漢字と平仮名と外来語を表す片仮名を使う日本語は、世界で最も豊かな言語だと思っています。好きな漢字を一つと言われると困りますが、信じるの「信」。信頼が人間関係の一番の基本をなすということから、この字を挙げたいと思います。

【老川】 若い人の間で漢字の間違い、誤用が結構目立ちます。どうお考えですか。

【児玉】 ふだん、正しいと思って使っている言葉も、実際には違っていることがありますよね。例えば「青田刈り」と「青田買い」を区別せず、一様に「青田刈り」を使ってしまう。ただ、意味の間違いをついしてしまう漢字のすごさにも注目すべきです。日本人は「電線」と「伝染」、「伝統」と「電灯」を聞いた瞬間に文字を想像して意味を理解しようとします。視覚で意味をとらえるのが日本人の得意技ですね。例えば、日本の新聞は、英字新聞に比べて、ぱっと開くと、見出しの漢字が意味を表しますから情報を瞬間的にキャッチすることができる。日本語のこの見事な特性を、21世紀を、生き抜くよすがにすべきだと思います。

【老川】 そうした素晴らしい漢字を覚えるコツは?

【池坊】 漢検1級をお取りになったある女優さんは、自分でノートを作って、稽古の合間に、寝る前に、時間があれば勉強したそうです。「自分はこういう世界にいて、努力が報われないこともたくさんある。でも漢検の試験は努力が報われます。努力をすれば結果が出ることを、味わうことができたのがすごくうれしい」と、おっしゃっていました。

〈子ども読書活動推進法〉
子供の本離れが指摘される中、読書活動を推進しようと2001年に施行された。同法に基づいて、国が08年3月に閣議決定した第2次基本計画では、公立図書館の児童室整備や学校図書館の充実などを、約5年間で進めるよう定めている。
〈文字・活字文化振興法〉
本や新聞など活字に親しむ環境づくりを進めるため、2005年に施行された。公立図書館の整備や学校での言語力育成、学術出版の支援など、国や自治体が推進するよう求めている。また、10月27日を「文字・活字文化の日」に定めた。

力強い文章力

【老川】 若い世代の言語力を、企業人の立場から葛西さんはどうお感じですか。

【葛西】 若い世代の人たちは、必要最小限度の表現力、理解力は備えているように思います。ただ、今の教育が文章力を鍛えることをあまりしていないので、伝わりはするものの、生き生きとした文章を書けない人が多いように思います。リズムや響きがあって、アピールする力が強い文章と、そうではない文章があります。漢字をうまく組み合わせる、例えば和漢混交文のような文章が、日本の公式文書のプロトタイプとして、ずっと続いてきたのですが、最近は、漢字のしかるべき使い方ができていない文章が見られるようになりました。

老川社長.jpg【老川】 伝わればいいというわけではないですね。OECDの国際学習到達度調査(PISA)で2000年に8位だった日本の15歳の読解力が6年後に15位。去年発表された09年の結果は8位にまた戻りましたが、どうご覧になりますか。

【池坊】 このままでは、子供の読む力が低下していくのではないかと心配です。日本の子供はテレビを見る時間、ゲームをする時間が長いんです。4月23日は読書に親しんでもらおうという「子ども読書の日」です。ただ、「本を読みなさい」と言っても、大人がゲームしていたら子供が読むはずがありません。そこで本を読む環境を国としてもきちんと作ろうと、文字・活字文化振興法をつくりました。

【老川】 葛西さんはかねがね、「読み書きそろばん」といった基礎的訓練が大事だとおっしゃっていますね。

【葛西】 子供たちが立派な大人に育っていく上で大切なのは、細かいことよりも基礎的な能力を養うことだと思います。その一つに言語能力があります。英語も大事ですが、まずは物を考え、それをいろいろな人に伝えていく上で基礎となる思考力、想像力を支える日本語をまずきちんと学ぶことです。それから、計算力、論理的な演繹(えんえき)力といったものを身につけていくべきです。今の教育は、あらゆることを学校で教えようとし過ぎています。「生きる力」を身につけさせるなど様々なことをやっていますが、それは友達と遊んだりすることで身につきます。基礎力を土台に応用力を伸ばせば、どんな社会の変化があっても適応していくことができると思います。

〈国際学習到達度調査(PISA)〉
OECD(経済協力開発機構)が義務教育修了段階の子供を対象に行う国際学力調査。2000年から3年ごとに科学的応用力、数学的応用力、読解力の3分野で実施。日本の読解力の国際順位は00年8位、03年14位、06年15位と下がり続け、教育界に与えた衝撃は強く、「PISAショック」とも言われた。09年には8位に順位を戻した。

物語の中の現実

児玉清.jpg【児玉】 私は、小説の新人賞の審査員みたいなことをしているのですが、出てくる作品の多くがコンピューターから引いてきて、そのまま蘊蓄(うんちく)を傾けるような内容なんです。僭越(せんえつ)な言い方をすれば、想像力の低下が進んでいると感じます。すぐ役に立つハウツー物の本は読むけれども、小説とじっくり向き合わないのが原因だと思います。フィクションを読まないと、想像力が伸びません。例えば経済が発達すれば、発達に伴って起きることがフィクションの中にも必ず盛り込まれます。しかもフィクションを読むと、現実が見えてくるのです。データや事実だけを知ろうとすると、その陰に何があるかが見えてきません。小説を読まない国に未来はないと、声を大にして言いたいですね。

【葛西】 私も小説を読むことは非常に大切だと思います。それに歴史ですね。歴史は一国の興亡、国際社会の成り行きを示し、伝記は人間の一生を記しています。小説や伝記、歴史を読むことは人間の成長に役立ちます。最近は手早く実務を身につけるような本が書店に並んでいますが、そのようなものばかり手に取っていると、一生が貧しいものになってしまう気がします。

【池坊】 私は本を読むことが大好きでしたが、昔は潤沢に本がありませんでした。そういう自分の体験を踏まえ、「子ども読書運動プロジェクトチーム」の座長として、三つのことを推進してきました。一つは朝の10分間読書です。自分の好きな本を選んで10分間読む。感想文を書かせると、そのために読むから、読みっ放しでいい。まずは本を読む習慣を身につけることです。二つ目はブックスタート。イギリスのバーミンガムでは、子供が生まれたときにお母さんに絵本を渡します。絵本を読みましょうと言っても、どんな本がいいか分からないですから、母子手帳と一緒に絵本や本のリストも一緒にお渡しするんです。日本でも752市区町村(2月末現在)で実施しています。三つ目は読み聞かせ。これは1冊の本を、おじいちゃん、おばあちゃんが孫娘に、近所の方が近所の子に読む。学校で読み聞かせをする方もいらっしゃいますよ。

【老川】 葛西さんが取り組まれた国鉄分割民営化は前例のないプロジェクトでした。

【葛西】 地図のない世界といいますか、今まで通りではうまくいかない状況を乗り切るのが課題でした。大切なことは、現状をきちんと認識し、どの方向に進めば成功し、問題が解決できる可能性があるか、方向を見定めることでした。そのためにはやはり若いころに読んだ本の中から、過去の人たちがどういう生き方をしたかを学んだことが支えになった感じがします。

【老川】 俳優として言葉の世界を歩んでこられた児玉さん、日本語や漢字で感じていらっしゃることは?

【児玉】 外国の作家の小説を原文で読んでから翻訳を読むと、英文よりも日本語訳の素晴らしさを感じることがよくあります。大変平易な英文が日本語になった瞬間に一変します。それが味わえるのは我々日本人だけということを誇りにすべきではないかと思います。

英語より情感

【老川】 これまでの議論を踏まえ、最後にひと言ずつお願いできますか。

【葛西】 先ほどの児玉さんのお話は、私も「谷間の百合」というフランスの小説で感じました。日本語の翻訳で読んでみると、とても陰影のある素晴らしい小説でした。ただ、これを英語の翻訳で読んでみると、英語そのものは、あまり変哲のないものでした。日本語は実は微妙なニュアンスに富んだ言葉なんですね。日本人は外国語が下手だ、英語が下手だと言いますが、それは日本語が持っているニュアンスの複雑さに対応した英語を見つけることが難しく、日本語の感覚を適切に表現する英語が見あたらないことから来ているのではないでしょうか。語学能力が低いのではないのですから、もっと自信を持ちたいですね。

池坊保子.jpg【池坊】 葛西さんがおっしゃった「地図のない世界を歩いた」というお話が、すごく胸に響きました。私たちはこの激動のグローバリゼーションの中で、地図のない世界を生きていかなければなりません。その中で必要なのは、判断力だったり、洞察力だったりします。テレビの情報は向こうから押し寄せますが、読書は自分の意思で立ち止まり、自分で考え、自分で構築することができる。学校の授業でも新聞の活用が始まります。みずからが判断し、問題提起し、そして行動するために、活字を通して知識を身につけることの大切さを改めて感じています。

【児玉】 この混迷する時代、日本人の特性を生かしていくことが大切だと思います。そのためには日本語に対する誇りを持つことです。ただ、テレビを見ていると、若い人の漢字の書き順に唖然(あぜん)とすることがあります。正しい書き順で書き、漢字をしっかり覚えていかなければならないと思います。

◇葛西敬之(かさい・よしゆき)JR東海社長
1940年、東京都出身。63年、東大法学部卒業後、旧国鉄に入社。87年の分割民営化を中心的な立場で主導した。95年、JR東海社長。04年から会長。読書家として知られ、読売新聞の読書委員も務めた。
◇池坊保子(いけのぼう・やすこ)漢検前理事長
1942年、東京都出身。衆院議員、日本漢字能力検定協会理事。今月5日まで同協会理事長を務めた。教育問題に詳しく、これまで、文部科学副大臣、同政務官、衆院青少年特別委員長などを歴任している。
◇児玉清(こだま・きよし)俳優
1934年、東京都出身。学習院大卒業の58年、東宝ニューフェースとして映画界入り。その後、テレビを中心に活躍。読書家として知られ、日本語の使い方を紹介する「ワーズハウスへようこそ」に出演中。

書けないけれど… パソコン世代「漢字に自信」

漢字の使い方に自信がない人が大幅に減り、逆に漢字の読み書きが得意だと思っている人が増えていることが文化庁が実施した「国語に関する世論調査」の結果から浮かび上がっている。

調査は2010年2月から3月にかけて、16歳以上の男女計4108人を対象に行われた。

それによると、「漢字の使い方にあまり自信がない」という人は、5年前の調査(41・3%)から12・6ポイントも減少して28・7%。逆に、かなり自信がある人は前回(8・2%)比4・9ポイント増の13・1%になった。

苦手意識を克服したのは、パソコンと親しんできた若者世代が多いとみられ、「漢字の使い方にあまり自信がない」という回答は10代(16歳〜19歳)が前回比21・1ポイント減、20代が16・5ポイント減と30歳未満の世代が大幅に減少していた。

若者世代には、難しい漢字に対する抵抗感が減ってきている傾向もみられ、約30年ぶりの常用漢字表の見直しで新たに常用漢字に加わることになった「憂鬱(ゆううつ)」の「鬱」の漢字を使うことで意味の把握が容易になると感じる人は、50歳以上が半数未満だったのに対し、20〜30代は6割以上に上った。

世相を映す「今年の漢字」

記録的な猛暑だった昨年は「暑」、政権交代があり、新型インフルエンザへの危機感が列島を覆った一昨年は「新」……。日本漢字能力検定協会が毎年12月に発表する「今年の漢字」には、その年の世相を描き出す「漢字の力」に対する日本人の強い信頼と親しみがうかがえる。

京都の清水寺でお披露目されるのは、一般から寄せられた「今年の漢字」で最も得票が多かったひと文字。真夏日、猛暑日が続き、多くの高齢者が熱中症で倒れ、野菜価格の高騰が家計を直撃した昨年は、過去最多の28万5406通の応募があり、このうち1万4537通が「暑」を挙げた。

そして、清水寺の森清範貫主が揮毫(きごう)する「暑」の一字を通して、過ぎゆく「2010年」を多くの人が振り返った。

時代を映す鏡のような役割を果たし続けてきた「今年の漢字」。2011年の暮れには、どんな漢字が選ばれるのだろうか。

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主催=日本漢字能力検定協会、読売新聞社

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