関西大学であさのあつこさん、亀山郁夫さんが講演

あさのあつこさん講演 「自分にとって書くこと、読むこと」

私は野球の話でも、漫才の小説でも、主人公が言葉を獲得していく過程を描いているつもりです。それはだれかに自分の考えを真剣に伝えなければならない時、その手段は言葉しかないと思うからです。

 岡山の田舎に育った私は幼い頃、本と縁がなく、山や川で元気に遊び回っていました。ところが中学に入って、エラリー・クイーンやアガサ・クリスティの海外ミステリーにはまったんです。今でも文学の役割なんて難しいことは分からないけど、読まずにいられないほど強力な磁力を持った物語を書きたい。それはこの時の海外ミステリーの影響が大きいと思います。あさのあつこ2.jpg

 10代半ばでサマセット・モームの『l間の絆(きずな)』を読み、物語とはこんなに美しい場面を書けるのかと驚きました。その中に出てくる娼婦(しょうふ)に特別な魅力を感じ、私も男を滅ぼし、自分も滅ぶような娼婦になりたいとあこがれた。周囲の大人はだれも娼婦に魅力があるなんて教えてくれません。物語だけが悪や滅びの美しさを教えてくれ、それが生きる根っこになっていったのを感じます。

 物語の魅力を知ると、その瞬間、自分を取り巻く壁に小さな亀裂が生じます。そこから光が差したり、青空が見えたり、壁の向こうに何かがあるという予感が生まれたりします。若い人は絶望しやすいけれど、物語の力によって、絶望から一歩を踏み出すきっかけが得られるのではないでしょうか。

 読むことと同時に書くことも大事。ノートを1冊作って、その日あった出来事や考えたことを書くといいですよ。自分は何ものなのかという一生の課題を探る糸口になりますから。言葉を獲得すればするほど、自分につながる人間や社会、世界との通路が広がっていく。だからなるべく多くの言葉を、意識的に獲得していってほしいですね。

言葉変換、大変だからおもしろい

あさのさんは会場の参加者からの質問にも答えた。

 【質問】人間を書きたいという気持ちが、出発点にあるのですか。

 【あさの】そうです。編集者との会話や読んだ本が刺激になって、私の中に人物が浮かんできます。すぐに書ける時も、5、6年かかる時もありますが、少しずつその人物の行動が具体的に見えてくるんです。中心に書きたい人間がいないと、作品は拡散しますね。

 最近は新人賞の選考委員として応募原稿を読む機会もあるんですが、文章が粗くて表現が稚拙でも、「この人間を書きたい」という確たるものがある人は、ぐいぐい最後まで読ませます。今は出版社が新しい書き手を求めているので、これまでにないものを書ける人は、年齢に関係なく物書きになれる可能性があります。でも、いくら技術があって描写力に優れていても、人間に対する思い入れが希薄な人は、作品に迫力がありませんね。文章が上手だと、かえって巧みさにおぼれて人間を書くことを忘れるのかもしれません。

 【質問】尊敬する小説家はいますか。

 【あさの】藤沢周平さんと辺見庸さんはタイプが違いますが、どちらも非常に美しい文章を書かれます。子どもを主人公にした藤沢さんの小説は、児童書としても読めるくらい表現が平明でありながら美しい。辺見さんのほうは、ぞくりとするほど性的でつややかな文章です。

 【質問】『バッテリー』が映画化されることに抵抗はありませんでしたか。

 【あさの】最初は悩みましたが、生身で動く少年たちの世界を見てみたくてOKしました。原作とは違い、監督の滝田洋二郎さんの作品に仕上がっています。映像には映像ならではのストレートな迫力があり、試写を見て「すごいな」と感心しました。

 【質問】初めて書いた物語はどんなものでしたか。

 【あさの】中学の時からずっと書いていました。ちゃんと書き上げたのは、高校2年の時の学校の課題が最初。その作品は『チュウガクセイのキモチ』という本に、ほとんど手直しせずに載せています。

 【質問】最近、児童文学には女性の書き手が増えていますね。

 【あさの】児童文学は書くのが難しいんです。大人の小説だと難しい言葉でも大丈夫だけど、児童文学は対象年齢が下がれば下がるほど、使えない言葉が増えていく。子どもたちに分かる言葉で伝えるために、変換する作業が大変で、だからこそおもしろい。

 【質問】若い人に対して読書を勧めるメッセージを。
 あさの よく若者の読書離れといわれますが、意外に読んでいるなというのが私の実感です。今は携帯もゲームもあって、本を読むしかなかった私の学生時代とは環境が違いますが、その割に本は健闘しているんじゃないでしょうか。本を読むことによって、自分を閉じ込めている壁にひびを入らせることができるのだから、若いうちからどんどん読まないともったいないですよね。
 

学生代表とトーク

講演の後、学生3人が壇上に上がり、あさのさんと語り合った。司会は柏木治・関西大文学部教授が務めた。

 【学生】『バッテリー』にはモデルがいますか。

 【あさの】全部私の中から生まれてきた子どもたちです。主人公の原田巧は私の好きな少年の典型。かれの焦燥感や人を求める気持ち、言葉を獲得しようとするあがき方は、私自身から出てきたものです。

 【学生】野球が好きで『バッテリー』を書かれたんですか。あさのと先生.jpg

 【あさの】巧という傲慢(ごうまん)で繊細な少年の特徴を際だたせるために、何かの才能を与えようと思ったんです。ダンスでもピアノでもよかったけれど、ふっと野球が浮かんだ。野球は集団競技なのに、投手と捕手が1対1で向かい合います。その関係がおもしろいなと思いました。

 【学生】『バッテリー』の最後は、巧が球を投げた場面で終わりますね。

 【あさの】彼を球を投げる人で終わらせたかった。はじめは2巻で完結する予定だったけど、気にネる登場人物が次々に出てきて、6巻まで書いてしまいました。

 【学生】どの作品に一番思い入れがありますか。

 【あさの】「書ききった」と思える作品がひとつあれば、もうそれ以上書かなくていいのかも。代表作はこれから書くつもりです。

 【司会】物語の最初と最後をイメージして、小説を書かれると聞きましたが。

 【あさの】まず書きたい登場人物があって、シーンがいくつか頭に浮かびます。最初と最後のシーンが見えると、それを文章化する言葉が出てくるんです。

 【司会】『ぬばたま』などの時代小説には、山に囲まれたあさのさんの暮らしが影響していますか。

 【あさの】 山の闇の暗さや匂(にお)い、音は私の中にしみ込んでいます。小説を書くのに一番必要なのは五感。見たり、聞いたり、肌で触ったりしたものが、意識しなくても出てきます。私が物語を紡げば、自然に山とつながるのだと思います。

 ただ、児童文学には制限があり、人間の心や体が破滅や腐敗に向かう話は書けません。大人向けの小説を書くようになって、初めて山の闇の深さと性的なものが私の中でつながりました。私はこんなものを身に潜ませていたんだと、書くことによって気づかされました。

 ◇あさの・あつこ 1954年岡山県生まれ。10年がかりで完結した『バッテリー』は、野間児童文芸賞、日本児童文学者協会賞、小学館児童文化出版文化賞を受賞し、映画化、テレビドラマ化された。『ランナー』『NO.6』のほか、時代小説『弥勒(みろく)の月』『夜叉(やしや)桜』など著書多数。

 

 

亀山郁夫さん講演 「ドストエフスキー、その可能性」

新訳『カラマーゾフの兄弟』全5巻は累計100万部を超えました。ドストエフスキーは古今東西で、お金というテーマを文学の中心テーマに引き寄せた最大の作家です。それが現代日本におけるドストエフスキー人気の理由の一つではないでしょうか。かめやま.jpg

 『カラマーゾフの兄弟』では、19世紀後半のロシアの片田舎で酒癖、金銭欲、色欲にまみれたカラマーゾフ家の父フョードルが殺される。兄弟の誰かが殺した。この謎解きが面白い。父親殺しというテーマの根本には、遺産相続の問題があります。

 今、翻訳中の『罪と罰』は、ペテルブルク大学の元学生ラスコーリニコフが、近所に住む金貸しの老婆を殺害する物語です。やはりお金が絡みますが、犯行の動機は「天才は凡人の権利を踏みにじっていい」という哲学。この一種の選民思想は、身近な歴史の中にも存在します。

 20世紀の独裁者スターリンは200万人のホワイトカラーを粛清した。彼は74歳まで生き、その行為は当時、ソビエト社会主義実現のため必要だったと正当化された。スターリンという天才は、凡人200万人の命を奪っても痛みを感じる必要はなかったのです。

 そう考えると、「正当な」理由さえあれば老婆を殺してもよい、という青年の理屈も成り立つ。ところが彼は殺害後、「天才」としての自覚を失い、恐怖にかられる。良心の痛み以上に、自分自身の存在が根底から震え、おののくような経験をなめるのです。

 私が初めて『罪と罰』を読んだのは、中学校2年の夏休みでした。完全に主人公にシンクロして、老婆殺害シーンを読んだ翌朝、家を出ようとして、逮捕されるという恐怖にかられました。それぐらい、主人公の青年に取りつかれたのです。

 今も夢に見ます。のどが渇き、冷蔵庫を開けるが何もない。ふと学生時代に使っていた小さな冷蔵庫を思い出す。開けると、中に3本のポリタンクが入っている。ジュースだと思って飲もうとすると、腐った嫌なにおいがする。その瞬間、それが私がかつて殺した人間の血だということを思い出すのです。聴講者.jpg

 人を殺した経験がないのに、なぜ夢に見るのか。13歳の夏、ラスコーリニコフに同期した経験が、意識の深層に刻みつけられたのではないでしょうか。時として、読書はそれぐらい、人間の魂にとって根源的な意味をもつのです。

 『罪と罰』の「罪」は、ロシア語では「またぎ越す」という動詞の名詞形です。内面的な「罪」より、「犯罪」のニュアンスが強い。新訳にあたり、タイトルを『犯罪と刑罰』にしようかと迷った。実際、ドストエフスキーは二つの罪の形を提示しています。

 老婆を殺した主人公は、ソーニャという娼婦に出会う。ソーニャに、ラスコーリニコフは「あなたもまた、またぎ越した」と言う。ソーニャは鑑札をもつ娼婦なので、法は犯していない。しかし、神が与えた体を利用するという意味で一線を犯し、罪の意識におののいている。

 ラスコーリニコフが住む屋根裏部屋とソーニャの部屋は、いずれも柩(ひつぎ)を想起させる。2人はいずれも柩に住む者、「死者」として描かれている。となると、この物語は人殺しをした青年が人間としてよみがえる物語であると同時に、貧しい一家を救うために春をひさぐソーニャが、自らの献身によって本来の生命を取り戻す物語でもあるのです。

 ラスコーリニコフは、ソーニャに「あなたが汚した大地にキスをして許しを乞(こ)いなさい」と言われる。人間は、根本的な悪を犯すことがあるかもしれない。しかし大地は自分の魂の中にある、自らのおごりを捨てて初めて、救いの道を得ることができる。そういう認識を『罪と罰』は与えてくれました。それは13歳の私にとって、非常に大きな読書体験でした。

◇かめやま・いくお 1949年栃木県生まれ。東京外国語大学学長。専門はロシア文学、ロシア文化研究。著書に『磔のロシア―スターリンと芸術家たち』『ドストエフスキー 父殺しの文学』など。『カラマーゾフの兄弟』新訳で毎日出版文化賞のほか、ロシア政府からプーシキン賞を授与された。

 

 

「共時性」キーワードに 柏木治・関西大教授、4年目の取り組み報告

関西大の「読書教養講座」の4年目の取り組みについて、担当の柏木治・文学部教授に報告してもらった。
 
 2005年度から設けている講座「読書への誘い」では、これまで主に日本の文学や出版事情をとりあげてきた。今期はヨーロッパに視点を移し、フランス文学、ロシア文学、哲学を専門とする教員で講義を組んだ。1、2年生を中心に約850名が受講している。 

 最近の古典新訳ブームと携帯小説の流行から始め、フランス文学を中心に近代小説の成立と職業作家の誕生、文豪たちの私生活と金銭問題を概観。「若者」と「メディア」という視角から、作家志望の青年を大量に産みだした19世紀に迫った。

 続いて、亀山郁夫氏の講演を前にドストエフスキーをとりあげ、道化、都市、自意識をキーワードに『分身』『死の家の記録』を分析し、『虐げられた人々』と『地下室の手記』の比較から作家における「書くことの意味」を問うた。

 また、フランスの詩人ランボーの作品を取り上げ、原典、日本語訳、英訳を比較することで、翻訳で読むことと原書で読むことの違いを論じ、「オリジナル」とは何かという問題にも踏み込んだ。

 あさのあつこ、亀山郁夫両氏以外に、作家の辻原登氏にも参加してもらった。いま振り返ると、辻原氏が口にした「シンクロニシティ」(共時性)という言葉が、授業全体のキーワードになったと思う。

 あさの文学に激しく共振する学生を間近に見、憑(つ)かれたようにラスコーリニコフに同期したという亀山氏の読書体験に耳を傾け、時空を超えて多様なテーマがシンクロする辻原氏の文学空間をさまよいながら、読書への誘いとは何よりも、シンクロニシティへの誘いであることを強く感じさせられた。

 学生は、この秋に読んだ作品のうち、ひとに勧めたい1冊を選んで短い推薦文と読書レポートを書かなくてはならない。かれらがどんな作品に関心を抱いているのか、いまから読むのを楽しみにしている。次期のテーマを設定するうえでも大いに役立ってくれるにちがいない。
 

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