第12回「翻訳文学のいま」

翻訳文学『面白いじゃん』ー村上訳で新たな発見 あふれる無限の発想

空白の10年

20070916_01.jpg【金原】 角田さんの推薦本はすべてアメリカ文学ですが、お好きなのですか。

【角田】 いや、あまり好きではなかったというか……。実は中学2年生くらいから10年間ほど日本の小説ばかり読んでいて、翻訳小説を読まなかったんです。苦手になったきっかけですが、アメリカの小説によくでてくる「グレービーソース」ってあるじゃないですか。

【金原】 はい、肉汁。

【角田】 何だろう、これって思って。全くイメージできなくて、もう読みたくないと。

【金原】 その空白の10年間にどんな日本の小説を読んでいたのですか。

【角田】 梶井基次郎とか太宰治とか漱石とか。一番好きなのは太宰です。70年代の終わりから80年代の初めって、今でいうヤングアダルトとか自分と同じ目線で書いてくれる作家がいなかった。近代小説か児童小説のどちらかになっちゃって。

【金原】 そんな古典的な文学少女が海外小説に目覚めたのはどうして。

【角田】 青山南さんが翻訳されたアメリカ現代小説のアンソロジーを読んだんです。そしたら身近な言葉が使われていてびっくりして、何だ面白いじゃんと。それから、わーっと読み始めました。いろいろな国の作品を読みましたが最近は英語圏の小説が多いです。

【金原】 どの作品から紹介しましょうか。

【角田】 じゃあ『冷血』から。去年新訳が出て、帯にひかれて手にとったら、もう頭が変になるくらい面白くて。

【金原】 ぼくもカポーティは大好きです。初めて最後まで読んだ原書が『遠い声 遠い部屋』でした。推薦リストに挙げている『ロング・グッドバイ』は、言ってみれば犯罪小説ですが『冷血』と通じるところはありますか。

【角田】 ないですね。『冷血』はノンフィクションノベルというかルポルタージュに近い。『ロング??』は人の死が小説の道具としてとらえられている気がします。

【金原】 『ロングーー』は村上春樹さんの訳ですね。僕は清水俊二さんの訳を高校生の時に読んだ。あのころはハードボイルド作家が次々と翻訳されていました。

【角田】 10代で唯一読んだ英米文学が野崎孝さん訳の『ライ麦畑でつかまえて』です。村上さんの新訳を読んで、こんなに違うものかと思いました。すごくクールで格好良く思えた主人公の男の子が、弱っちくてちょっと情けない子になっていて。自分が大人になったこともありますが。17歳で村上訳を読んだら、もっと違う感想を持ったかもしれない。

【金原】 たしか川上弘美さんが、新訳はモダンな家だが、昔読んだ旧訳は古い自分の家みたいと言ってたけど、それはあるかな。

訳者の大ファン

【角田】 『ホテル・ニューハンプシャー』は新訳とか旧訳とかは全く関係なく、アーヴィングが大好きなのでリストに入れました。それからトニー・アボットの『ファイヤーガール』。訳者の代田亜香子さんの大ファンなんですよ。

【金原】 訳者のファンになるってまずないですよね。

【角田】 代田さんの訳すものどれもが素晴らしいです。彼女自身が選んでいるのかな。すごく信頼していて、この人が訳された小説だったら外れはないと思うくらいです。

【金原】 翻訳者に対する最高の賛辞です。

【角田】 ヘミングウェーも読んだことがなかったのですが、2年前にキューバに旅行したときに『海流のなかの島々』をずっと読んでました。

【金原】 いかがでしたか。

【角田】 ヘミングウェーは形容詞をあまり使わないと聞いていたので、殺伐としているかと思っていたのですが、読みやすくて美しい。イメージがすっかり変わりました。命のきらめきみたいなものを書くのがすごくうまくて、きらめきの一瞬に、この幸せはもう続かない気がするという怖くなるような変な緊張感があって。

能天気、胸にぐっと

20070916_02.jpg【金原】 では僕の推薦本の紹介を。まずルイス・サッカーの『穴』です。無罪で捕まった少年が矯正キャンプに放り込まれてひたすら穴を掘らされるという変な話なのですが。後半ダイナミックにひっくり返る展開の面白さがとても好きです。古典として残っていくだろう子どもの本だと思います。

【角田】 私も面白かった。

【金原】 次は『女帝 わが名は則天武后』です。著者の山颯はフランスに亡命してフランス語で小説を書いている中国人です。則天武后が赤ん坊でおなかの中にいるところから始まるのですが、描写が異様に幻想的で生々しく、いきなり物語にひきずり込まれます。

【角田】 ほんとに面白くてびっくりしますよ。まだ30代の女性なのに、どうしたのというぐらい。

【金原】 というわけで二人そろってのお薦めです。フランス語で書かれていますが舞台が中国なので翻訳くささが全然ないんです。訳文も格調高いです。

【角田】 若い中国の作家がたくさん出ていますね。

【金原】 『猫とともに去りぬ』は、児童書も一般書も書いているイタリアのロダーリの作品です。

【角田】 短編集ですね。

【金原】 重量挙げの選手になった男が船や島を持ち上げる話とか、日本製のオートバイに恋をして駆け落ちをする若者の話とか。日本ではちょっとお目にかかれない奇妙な発想が、きちんとした物語として展開されてゆきます。

【角田】 最後は『フランス詩大系』です。

【金原】 編者の窪田般彌さんは、フランス語の研究家で翻訳家でした。最近寝る前にぱらぱらとめくるのがこの本なんです。何だ、この能天気なという詩もあれば、胸にぐっとくる詩もあります。これで本の紹介は終わりです。

【角田】 私、金原さんに質問したいことがあるんです。ヘミングウェーの『武器よさらば』の新訳を出されましたが、以前にお二人が訳されていますよね。

【金原】 大久保康雄さんと高見浩さん。

【角田】 誰も翻訳したことのないまっさらな作品と比べて難しいですか。

【金原】 全く同じ表現があって、まずいから終助詞を替えたりすることはたまにありますが。でもあまり考えないですね。

「ぼく」と「おれ」

【角田】 大久保さんと高見さんは主人公の一人称が「ぼく」じゃないですか。そうしたら金原さんの訳では「おれ」だったので、すごく印象的でした。

【金原】 俗で荒っぽい軍隊の中にいる主人公が「ぼく」では違和感があったんです。ところが困ったことがあって、第1次世界大戦当時はある意味田舎だったアメリカ人の主人公が、世界に冠たる大英帝国の女性に恋をする。「おれ」とは言わないだろうなと。結局、この女性に対する時だけは主語はすべて削ってしまった。角田さんは創作の時、一人称で迷うことはありますか。

【角田】 あまりないです。決めてしまったらそれで。

【金原】 英語の一人称は「I」しかないし二人称は「You」しかない。お父さんは子どもにむかって「You」と言うけど子どもも同じ。その感覚はほんとにおかしい。大統領もバルタン星人も自分のことは「I」だけどそれでオーケー?(笑)。一人称と二人称の呼び方だけ読者が勝手に決めていい翻訳本って楽しいと思いません?

【角田】 いや、それはちょっと……(笑)。ところでこの前『対岸の彼女』を初めて英語に訳してもらったんです。

【金原】 直木賞受賞作ですね。

【角田】 女性二人がなかなか距離を縮めることができないという話です。だからお互いに、名前ではなく名字をさん付けで呼び合っている。翻訳家は微妙な距離感を理解してくれたのですが、その方のボスが「ミス何とか」と呼び合っているのは、あまりに礼儀正しすぎて日本人以外の読者にはパロディーのように感じられると。悩んだ末に、結局、呼びかけの言葉を削除したとおっしゃってました。

「ねえジャック」

【金原】 我々翻訳家も、呼びかけにはいつも迷っている。昔なら奥さんがだんなに向かって「ねえ、よしお」とか呼ぶことはあまりなかった。だから「ジャック、その本とって」と言う表現には違和感があり、「あなた、それとって」とか訳していたのですが、最近では「ねえ、ジャック」という表現が増えています。

【角田】 兄弟の場合、お互いに名前で呼び合うので、どちらが兄かわからないですよね。どうやってわかるんだろう。

【金原】 わからないんです。かつて5人のおじおばが出てくる小説を訳したときに、日本語では年齢順がわかった方が理解しやすいので、作者に尋ねたら「考えてなかった」って。順番つけてよとお願いしたんですけれども。

【角田】 でもヘミングウェーみたいにもういない人だったら。

【金原】 聞きようがないですね(笑)

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作品との距離

【角田】 小説を書くことはその人になりきるとのとらえ方があります。自分が40代だから10代の女の子や70代の男性には入りきれないというような。翻訳の場合はどうですか。

【金原】 翻訳家によりけりだと思います。僕は原文と自分との距離がかなりあってどのジャンルでも訳す。大事なのは、翻訳する作品が自分にとって面白いかということで、主人公の気持ちに入っていけるかどうかはあまり関係ありません。そういう意味では作家さんとは違うと思います。

【角田】 依頼されるのと、自分からこれを訳したいということはどちらが多いのでしょうか。

【金原】 10年くらい前までは持ち込んでは断られを繰り返していたのですが、最近は、基本的には好きな本を訳すようにと思っています。角田さんは創作は楽しいですか?

【角田】 すっごく楽しいです。『八日目の蝉』では、この方向に行こうと思ったら気持ちよく言葉がついてきてくれた。これはほんとに楽しかったです。これまでのお話を伺っていて、翻訳と創作とでは随分違うと思いました。あと伺いたいのですが、私が読まなかったころに比べ、今の翻訳小説をどう思いますか。

等身大

【金原】 僕が大学に入った三十数年前の英文科は、文学好きより英語の先生になりたい学生が多かった。格好いいのはフランス文学で次がロシア文学でした。だから今は英語圏の小説が多いですが、これから先はわからないですね。

【角田】 日本の小説も95年くらいを境に等身大での言葉で読める作品がすごく増えました。活字離れと言われますが、若い人たちは一昔前より幅広く読んでいると思います。

【金原】 それは僕も感じます。最近は小さいときからテレビがありゲームがあった。中高生になって、あれっ、本って意外と面白いじゃんと発見するという構造が生まれてきた。そういった活字文化の広がりを、大学でもはぐくんでいきたいと思っています。

地球の裏の作家に共感/安西徹雄さん

会場でシェークスピアの朗読劇 

上智大学名誉教授で、演劇集団「円」の演出家、安西徹雄さんに、シェークスピア作品の魅力について語ってもらった。

シェークスピア作品との出合いは中学3年の時。古里・松山市で見たニュース映画の『ヴェニスの商人』だった。天を仰ぎ、嘆きの言葉を吐き捨てるシャイロックの印象は鮮烈だった。「文化祭で上演しよう」と、同級生に借りた全集をひもといて、無我夢中で台本をつくった。生まれて初めて演出もした。

シェークスピアのせりふには不思議な力がある。たった一言が、時には相手を殴るのと同じ衝撃を与える。長年演劇に携わってきた私は今回、せりふが持つ力、躍動感を最大限に生かした翻訳を心がけた。

例えば、朗読劇で紹介した『十二夜』の執事マルヴォリオ。丁重で従順な職業上の顔、恋文を拾って有頂天になった時のこっけいさ、地下ろうにつながれて報復を誓う場面。同じ人物なのに、感情の動きに応じて、言葉は自在に変化する。口調や語尾の違いを、できる限り訳出したつもり。読むだけでも、人物が生き生きと立ち上がってくるように。

 1960年代以降、日本の演劇界では、西洋の近代合理主義に、日本の土俗的な要素が融合していった。私が訳・演出した『間違いの喜劇』にも、三味線を弾き、歌いながら旅をした盲目の女性「瞽女(ごぜ)」の語りを連想させる長ぜりふがある。試行錯誤するうちに七五調のリズムになることが多い。日本人である私の訳には、歌舞伎や浄瑠璃といった伝統芸の影響が、自然に出てくるものだと思う。

現実と、その背後にある目に見えない世界。二つの間を橋渡しする「通路」が芸術ではないだろうか。文学や演劇は、「生」「老」「死」という抽象概念を、感覚として、私たちに体験させてくれる。

例えば『ロミオとジュリエット』のラスト。自殺したロミオに口づけしたジュリエットは「まだ、ぬくもりが残っている」という。観客は、そのせりふに「生」の本質を実感し、「死」の悲しみを追体験する。

古典は、時空を超えて、電波を発信している。我々は、400年前に地球の裏側で生きた作家が創造した人物に共感する。作品との距離が遠ければ遠いほど、味わう喜びも深い。感度のいい受信機を持ち、受け止めた電波を伝え続ける翻訳者でありたいと思う。

(2007/09/16)

金原瑞人(かねはら・みずひと)
1954年生まれ。法政大学社会学部教授。翻訳のほか評論、エッセーなど幅広く手がける。訳書に『幸せな王子』(ワイルド著)、『青空のむこう』(シアラー著)など多数。
角田光代(かくた・みつよ)
1967年まれ。早稲田大学文学部卒。『幸福な遊戯』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。『空中庭園』で婦人公論文芸賞、『対岸の彼女』で直木賞、『八日目の蝉』で中央公論文芸賞に輝く。
安西徹雄(あんざい・てつお)
1933年生まれ。著書に『この世界という巨きな舞台』『仕事場のシェイクスピア』『彼方からの声』など。光文社から訳書『リア王』『ジュリアス・シーザー』『ヴェニスの商人』を既刊。『十二夜』は11月8日発売。
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