西南学院大で福原義春さん、阿部和重さん講演

■出演
福原 義春さん
阿部 和重さん

 西南学院大学読書教養講座公開授業(主催 活字文化推進会議・西南学院大学、主管 読売新聞社)が5月15日に資生堂名誉会長の福原義春さんを、6月1日に芥川賞作家の阿部和重さんを講師に迎えて、福岡市の同大学で開催された。経済界随一の読書家として知られる福原さんは「読書が人をつくる」をテーマに語り、「よりよく生きようとするすべての人にとって教養が必要であり、それは本を読むことによって身につけられる」と強調した。「フィクションとリテラシーについて」をテーマにした阿部さんは、「フィクションと現実は地続きではない」と指摘、そのことを理解させるためにリテラシー教育が重要だと述べた。2人は講演に引き続き、それぞれ三宅敦子准教授、西村将洋准教授を相手に対談。質疑応答では、会場から熱心な質問が相次いだ。

福原 義春さん講演 「読書が人をつくる」

WEB福原さん.jpg 本は人類の知的資産を拡大再生産します。本を読むことで、私たちは5000年の間に蓄積されてきた人類の知的資産を自分のものにし、その上に人生を築くことができるのです。
 
  2000年前に書かれたジュリアス・シーザーの「ガリア戦記」は、岩波文庫だけでも68刷を重ねています。鴨長明の「方丈記」も1000年前に書かれている。こういう本を現代人が読んで、感銘を受ける。これはすごいことです。

 ラ・ロシュフコーの「箴言集」は、2、3行の短い警句がたくさん収められた本ですが、例えば、93番には「年寄りは悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、よい教訓を垂れたがる」とある。

 人は、これらの言葉から、自分の愚かしさを思い知らされる。反省しながらも同じ過ちを繰り返すわけですが、それが人間の厚みや深みといったものをつくっていくのだとも思えます。

 本を通して、短い人生の中では、とても考えることも体験することもできない知性に触れ、偉人たちの高い境地を知ることができる。書物には、時代を超える知の連鎖を作り出す力があるのだと思います。

 アメリカの女流作家へレーン・ハンフに「チャリング・クロス街84番地」という作品があります。米国の文筆家志望の女性と英国の古本屋街の店員との大西洋を越えた手紙のやり取りの形式でそのまま小説になっているのですが、友情とはこういうものか、人は本というものにこんなにも愛情を注ぐのかということがわかります。

 生涯本を読むのが理想ですが、私の体験では、同じ本を20代で読んだ時、30代、40代、50代で読んだ時とでは、読んでいる所が違う。いい本は何回も読むべきです。一方、若い時に読んでおかなければならない本があると同時に、50代、60代にならないとわからない本もある。読む側にも旬があるし、読まれる本の側にも旬があるわけです。

 現代はデジタルで情報を得られる時代ですが、哲学者の今道友信先生は、単なる情報と認識との決定的な違いを見過ごさないようにと警告されています。教養=知識というのも誤解です。知識や経験を糧にして、全人的にどんな存在になれるか、そして、その存在をもって、他者にどう影響することができるか。それが教養の本質なのだと私は考えています。

 1931年生まれ。慶応大学経済学部卒業後、資生堂入社。87年に資生堂社長、97年会長、2001年から名誉会長。東京都写真美術館館長、企業メセナ協議会会長、全日本蘭協会名誉会長、文字・活字文化推進機構会長、活字文化推進会議推進委員も務める。著書に「ぼくの複線人生」「だから人は本を読む」など。

対談◇三宅敦子准教授 読むべき本 経験重ね発見

【三宅】 最近、読書というすばらしい世界を知らない学生が多く見られます。そんな若い人たちから、どんな本を読めばいいのかという質問があったら、どうお答えなさるでしょうか。

【福原】 僕の時代は、新刊もない時代でしたから、家にある本を読んでいたんです。たくさん本を読むと、ああ、こういうのが自分が今読みたい本なんだというのがわかってくる。それはたくさん読んでみないとわからないんですよ。

【三宅】 本に旬があるというのは、同感です。その時は面白くないと思っても、しばらく寝かせておいて、違った時に読むと、面白い発見があったりするということでしょうか。

【福原】 人生体験も積み、ほかの本を読みあさった末に再び戻ってくると、やっぱりこれは読むべき本だったなと腑(ふ)に落ちる場合があるんですね。

【三宅】 教養とは、人間がよりよく生きるために、自分の時代でさらに高めて、次の世代に渡すことなんだというお話がありました。今日おいでいただいている年配の方たちが、次の世代に渡していけるものとして、どんなことができるとお考えですか。

【福原】 ボランティアで小さい子どもたちに読み聞かせをするというようなところから始めるということもあります。図書館にも、「あなたがこの前借りたのはこの本だから、今度はこういう本を読んでみたらどう」と言えるような司書がいていただけるといいですね。

 

阿部 和重さん講演 「フィクションとリテラシーについて」

WEB阿部和重さん.jpg 僕は、映画の専門学校でシナリオを書かされて、それが面白くて、その延長で小説を書くようになりました。しかし、シナリオと小説は、似て非なるものです。「シンドラーのリスト」という映画の脚本は、最初は原作者が書いたのですが、スピルバーグは気に入らなかった。結局、監督を満足させる脚本を書いたのは、脚本家で後に監督もする人でした。
 
 脚本家が原作の良さを映像表現に移し替える方法を熟知していたのに対し、原作者の方は、小説の方法は知っていても、それを映像表現に適用することができなかったわけです。
 
 このように、創作という行為には、ジャンルごとのルールがあって、それがテクニックと結びついている。創作は人為性や作為性と切り離せず、人為的な操作を介さない創作はあり得ません。よく創作物を「リアル」という言葉で評価しますが、現実をありのままに表現することなどできるはずがない。創作物というのは、本来、不自然で作為的なものなのです。
 
 東京都で性描写漫画規制案というものが問題になっているのですが、表現を規制しようというような発想が出てくるのは、フィクションというものについて考え違いをしているからだと思います。フィクションと現実とは地続きではないという視点がすっぽり抜け落ちているわけです。その一因が、学校教育におけるリテラシー教育の欠如にあると、僕は考えます。
 
 授業で文学作品を採り上げる時に、先生は「この作品からは、ある困難に直面した人間の苦悩がリアルに描かれている」というようなことをよく言います。「リアルに」という常とう句がみだりに使われることの背景には、フィクションに対する誤解や認識不足があるのではないか。
 
 教訓とか、人間としてのあるべき姿を描くことだけが小説の可能性ではなく、文学作品はいろんな可能性を備えている。表現形式上のルールや作為性といったことが知識として頭に入っていれば、フィクションの人工性というもの、高度にテクニカルなものに感動することができます。
 
 技術的に作られたものの持つ、時計仕掛けの正確性のようなものに感動を覚えるということもあるわけで、形式主義者を自称している僕としては、そういうものの素晴らしさをもっと味わっていただきたいと思っているわけです。

 1968年山形県生まれ。94年「アメリカの夜」で群像新人文学賞を受賞して、小説家デビュー。97年の「インディヴィジュアル・プロジェクション」が若者の共感を得、「J文学」という言葉を生んだ。2004年「シンセミア」で伊藤整文学賞、毎日出版文化賞。05年「グランド・フィナーレ」で芥川賞。 

対談◇西村将洋准教授 既成のイメージずらす 

【西村】 阿部さんの小説には、ご自分の出身地である神町という町が出てきます。自分の生まれた場所をフィクションに描いていくことの意味をどんな風にお考えですか。

【阿部】 ありふれた田舎町なんです。名前の由来を調べても「全然神の町じゃないじゃん」という感じで。しかし、何の変哲もないことが、とても物語化しやすいなと思ったんです。何もないからこそ、その穴を物語で埋められるというような……。

【西村】 新作の「ピストルズ」もそうですが、阿部さんの作品には、フィクションの圧倒的な力があります。フィクションの重要性に気づく瞬間がおありだったのでしょうか。

【阿部】 フィクションが現実とも夢とも異なる、第3の層みたいなものとして存在するんだということを、漠然と考えながら、映画から小説の方へ行ったということはあると思います。

【西村】 人間は役に立つことばかりでは生きられません。阿部さんの作品を読んでいると、虚構という元来役に立たないものが、逆説的に人間の生に役立っている、そんな印象を受けます。

【阿部】 それを受けて、あえてフィクションが役に立ちそうなことを言いますと、現実のシミュレーションとして機能させるということが一つある。それと、世間一般に流通している記号のイメージをずらすことによって、別の可能性を提示する。そういう風にもフィクションは機能し得るものじゃないかと思いますね。
 

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