2011年11月24日
共立女子大学 活字文化特別セミナー/鹿島茂さん、平野啓一郎さん、塩川浩子さん
「パリ、神保町 ― 読書を愉しむ二都物語」
読書で浸るパリの文化
主催者挨拶 共立女子学園学園長・理事長 石橋義夫さん
今年で創立125周年を迎えました共立女子学園は、神保町とともに発展してきました。30年の長きにわたって本学の教育を担っていただきました鹿島茂先生をお招きした今回のセミナー。芥川賞作家の平野啓一郎先生と本学の塩川浩子教授と一緒にパリや神保町についてお話しされます。
神保町ブックフェスティバルの期間中にここ共立講堂で開催されるのは、大変意義のあることと思っております。
鹿島 茂さん 基調講演
パリ研究 古書店巡り結集
パリと神保町、読書をつなぐ今回の講演テーマは私の生涯を要約したものと言えます。神保町は、大学時代に映画館や古書店巡りを始めて以来、なじみの深い街。その後、共立女子大で30年間教鞭を執り、街への愛着は深まりました。
1978年に共立に奉職し、文化勲章受章者で仏文学の大家、河盛好蔵先生と出会ったことが人生の一大転機になりました。当時、私はクリスチャン・メッツという映画記号学者の『映画と精神分析』という本を胃炎になるほど考え抜いて翻訳し、河盛先生に1冊献呈しました。難解な訳を完成し、内心得意でしたが、先生から「こういう難しいことをやられて、鹿島さんは楽しいですか」と言われ、目を開かされた。その一言があったからこそ、パリそのものを研究対象にすることに思考を切り替えられたのです。パリ研究は誰も手をつけなかった分野。しかも、そこからフランスの文学や歴史の研究に広げることもできる! そう気づき、文献集めを始めました。
ここで再び、河盛先生の「本当に必要な本は自分の金で買え」という言葉が浮かんできました。その頃、神保町の古書店で、ジュール・エッツェルが編集した『パリの悪魔』という本を見つけました。19世紀に出版された本が日本で手に入ることに感動し、月給15万円ほどの時代に15万円ですから、その時は買えなかったのですが、これで古書の魅力にとりつかれました。パリ滞在中も、ほかの研究者が国立図書館にこもって猛勉強するのをよそに、私は借金覚悟で古書店を回り大量の本を買い込みました。それが私のパリ研究に結集していったのです。
私は古書を通じ読書の喜びを知りました。本は時空を超え、人をあらゆるところに運んでくれます。21世紀の神保町にいても、19世紀のパリにタイムスリップすることもできるのです。
平野 啓一郎さん 基調講演
仏作家 三島作品読み興味
僕には、パリ社交界を舞台にショパン、ドラクロワ、ジョルジュ・サンドの人間模様を描いた『葬送』という小説があります。その作品に至るまでの私の読書遍歴を話したいと思います。
幼児の頃から絵本を与えられたら何時間でもおとなしくしているような子どもだったらしく、小学生になっても、大百科シリーズ、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズなどを愛読しました。本格的な読書は、中学に入り、通学電車で本を読み出してから。2年の時に、三島由紀夫の『金閣寺』に出合い、きらびやかに輝く文体に魅了されました。続いて、ほかの三島作品を読んでいると、ラディゲやコクトー、ボードレール(ボオドレール)、バルザックなどフランスの作家名が次々に出てくる。三島ファンとしては、三島に影響を与えた作家にも興味を抱き、彼らの作品を手に取るようになりました。
高校時代に好きになったのは、象徴派の詩人。ランボーの『地獄の季節』は小林秀雄、ボードレールの『悪の華』は鈴木信太郎の訳で読みました。当時の詩の翻訳は、旧字旧仮名、難字が多く使われ、文章は美文調。僕は難しい言葉や表現が出てくると宝物を見つけたような気持ちになるので、自然に語彙が増えていった。それが僕の小説に反映しているのかもしれません。
ところが、受験勉強中に、このまま一生、美とか死とか深刻な命題を追い続けることに嫌気が差し、京大は法学部を選んだ。京都へは本を1冊も持っていかなかったほど。しかし、政治思想史の小野紀明先生の授業で、ハイデガーやデリダといった現代思想家を知り、読書を再開。そして、表現意欲を満たそうと小説を書くようになったのです。
1冊の本が生み出されるまでには、筆者の創作の歴史だけでなく、その人に影響を与えた多くの文学作品が集積されている。それを感じ取るのが読書の楽しみの一つであると思います。
トークセッション 鹿島さん×平野さん×塩川さん
バルザックで研究方法論知る 鹿島
ショパンの時代に憧れ小説化 平野
ゾラ作品に感じる人間の強さ 塩川
【塩川】 平野さんは、お薦め本の1冊目に『優雅な生活』を挙げています。この本は、平野さんの代表作の一つ『葬送』と同時代のパリが描かれていますね。
【平野】 パリに憧れを抱いたのは、高校の頃にショパンの伝記を読んだのがきっかけ。音楽だけでなく、人間ショパンにも興味を持つようになり、作家になってそれを小説にしたのが『葬送』です。『優雅な生活』は、ショパンが生きた19世紀の社交界、劇場、サロン、議会、カフェなどパリを構成するすべてが描かれています。『葬送』の参考にしましたが、そのほか、ショパンと男女の関係にあった作家のジョルジュ・サンドの書簡集も読みました。
【塩川】 サンドがショパンに出した縁切り状のような手紙は痛切で忘れられません。
【平野】 確かに、音楽研究家が書けないことがたくさん書いてありました。
【鹿島】 サンドは自伝もすごい。独力で知識階級に上昇したサンドの自伝を読むと、女性の社会進出は必然だなと感じました。
【塩川】 その自伝は、『我が生涯の記』というタイトルで分厚い翻訳が出ています。ところで、鹿島さんがコレットの『青い麦』を薦められたのは意外でした。
【鹿島】 久々に新訳が出て、私はその解説を書くために読み直しました。そして、20世紀の作家で後世に残るのはプルーストとコレット以外はないだろうという結論に達した。従来のフランス文学のパターンを破り、同じ階級の若い男女の恋愛が登場したのは、『青い麦』をもって嚆矢とします。
【塩川】 コレット以前のバルザックやスタンダール、フロベールの傑作は、若い男が年上の人妻に恋するという不倫小説ですね。
【鹿島】 19世紀のフランス文学は有夫の姦婦、つまり夫がある浮気妻の物語。明治にはそのほとんどが翻訳できなかった。これに対してコレットは、ヴァンカという新しいタイプの女性を創出。中性的で、男の子っぽい女の子の微妙な心理の揺れを見事に描いている。
【平野】 話を聞くと、読みたくなってきました。
【塩川】 私は林芙美子の『下駄で歩いた巴里』をお薦め本に挙げました。ベストセラーになった『放浪記』の印税で、昭和6年からヨーロッパを放浪した時などの紀行集。パリには8か月滞在し、「巴里は自由な街」と記している。実は、芙美子は、コレットを好きではないと日記に書いているのですが、実はコレットを目標にしているように思えます。
【鹿島】 私が訳した、バルザックの『ペール・ゴリオ』もお薦めします。ゴリオ爺さんが住む下宿に様々な階級の人が集まり物語が展開していくのですが、その下宿屋さんを描写したフランス語の表現が所々、理解できませんでした。しかし、パリに行って現実を見ると全部疑問が氷解した。この小説を通して、細部の大切さを知り、私の研究の方法論になったのです。
【塩川】 平野さんが挙げたウエルベックの『素粒子』は現代フランス文学の傑作と言われています。
【平野】 国語教師と分子生物学者、異父兄弟の2人が主人公です。どん底まで暗い小説なのですが、最後のページを閉じたときに、三島の『金閣寺』やドストエフスキーの作品と同様に、ああ、読書っていいなあと感じた。僕は、小説を読んで暗い気分になることもある種の快感ではないかと思っている。『素粒子』は『決壊』を書く前に読んだので影響を受けているはず。
【塩川】 暗い小説といえば、私が挙げたゾラの『居酒屋』も暗い。19世紀のパリの下層階級の悲惨な日常を活写しているのですが、かえって人間の強さを感じました。
さて、本日はしばし、パリの文化に浸りましたが、ここ神保町も文化満ちる街。その雰囲気に包まれたまま書店に立ち寄り、今宵は読書を楽しまれてはいかがでしょう。