「青春と読書」

首都圏西部大学単位互換協定会 読書教養講座 一般公開授業

基調講演

10代の感銘、消えない

20070114_01.jpg 私はいま85歳だが、10代のころに読んだ『万葉集』の相聞歌や挽歌(ばんか)、あるいは『論語』の言葉などから受けた感銘は、いまだに消えない。そうした読書が自分の人生に豊かなものを与えてくれたと、非常に強く思う。

読書を通じて、古今東西の人と友だちになれる。著者を相手に一対一で問答できる。一方的に情報を与えられるテレビなどとはその点が異なる。

『論語』に「巧言令色鮮(すくな)し仁」という有名な言葉がある。言葉巧みにうまいことを言っている人は、ヒューマニティーとか愛情が乏しいんだよ、という意味だが、複雑化した現代社会も、2500年昔とちっとも変わっていない。若いときに丸暗記すれば、一生心のよりどころとなる言葉が、たくさんちりばめられている。

英国の知恵、ユーモア

ところで、我々は文字から知識を得ることはできる。が、それ以上にもう一つ上をいく「知恵を授かる」ことが大きいと思う。

チャーチルの備忘録にこんな話がある。第1次世界大戦中、西部戦線の塹壕(ざんごう)の中で、ドイツ陸軍と対峙(たいじ)していた英陸軍の少尉が、あまりの寒さにシェリー酒を飲もうとしていた。そこに突然、連隊長の大佐が巡視にきた。とっさの知恵で、ろうそくをシェリーの瓶の上に立ててごまかした。

20070114_02.jpg 1週間ほどして休暇でロンドンに帰った少尉が、将校クラブで、連隊長の大佐とばったり顔を合わせた。大佐はボーイにシェリーを2杯注文すると、「この酒はろうそくのにおいはしないよ」と言って乾杯したという。

昔の日本の軍隊だったら、ビンタを張られるか、長々と説教されるかのどちらか。いずれにせよ、あまりいい効果は生じない。小泉信三さんが「日本人に足りないのは、この英軍大佐のような大人の知恵ではないか」という意味のことを書いている。

英国人はこのような一種のユーモアを特に大事にする。数学者の藤原正彦さんは、20年ほど前にケンブリッジ大で研究員生活を送った経験から、いったん自分を状況の外側に置くことから出てくる妙なおかしさが英国流のユーモアだという。そして危機的状況に置かれたときに、このユーモアが最大の価値を発揮するのだという。

英国病と言われ、下り坂に向かうばかりと思われていたのにそうはならない。一本調子で物事を見ないという意味では、英国は非常に粘り強いところがある。

その点、日本人は一本調子ですぐカーッとなる。瞬間湯沸かし器とあだ名される私など、その典型だけれども。

井上成美の柔軟思考

最後の海軍大将と言われた井上成美提督は、日独伊三国同盟に命がけで反対し、米国と戦争したら、日本全土は米軍に占領されると開戦前に予言した。かみそりのように切れる人だが、ここまで言うと中央には置いておけぬということになり、海軍兵学校の校長になった。

戦争が激しくなるにつれて、カレーライスが「辛み入り汁かけ飯」と言い換えられるなど英語が敵視され、兵学校内でも英語の授業を廃止しようという声が出た。井上さんは「望むと望まざるにかかわらず、英語が世界の共通語であるのは否定しようのない事実である」と却下し、兵学校では最後まで英英辞典を使った教育が行われた。

井上さんは、硬直した一本調子の思考をしない、ユーモアと笑いを大切にする人だった。

読書によって知恵を養い、一筋縄ではいかない考え方をするようになることが、人生を豊かにする一つの道かと思う。

『論語』に短い言葉で書かれているのだが、学問でも芸術でも、楽しんで取り組んでこそ自分の身になる。小説でも論文でもエッセーでも、本当に楽しんで読むことのできる本をみつけることができれば、皆さん方の心の滋養になる日がくると思います。

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質疑応答

優れた古典読み、文章磨く

【質問】 なぜ小説家になろうと思ったのか。

【阿川】 志賀直哉先生の作品を読んで、自分もこういう優れた物語を作ってみたいという気持ちになった。志望者が大勢いて自信はなかったが。そのことに打ち込み一生を棒に振るぐらいの気持ちで取り組んできた。

【質問】 どのように文章を磨いてきたのか。

【阿川】 関係代名詞がないなど日本語にはやっかいなところがある。明確に、しかもすっきり美しい文章を書くのは非常に難しく、いまだに悩んでいる。やはり優れた古典をよく読み、滋養分を吸収しなければならない。

【質問】 自分自身とは全く違う視点から物語を書きたいのだが。

【阿川】 どんな人でも、一生に一つの長編小説を書ける材料は持っている。ところが、ただ観念で作った人物がいろいろな事件に巻き込まれるという話を書いただけでは通俗小説になる。芸術作品を志すなら、チェーホフやトルストイ、あるいは鴎外でも漱石でも、立派な作家を手本にして、大変な覚悟で勉強する必要がある。

(2007/01/14)

阿川弘之(あがわ・ひろゆき)
山口県出身。旧東京帝国大学卒。日本芸術院会員。1999年文化勲章受章。海軍体験をもとに、従来の戦争小説とは一線を画す文学性豊かな作品群を生み出す。主著に「春の城」「井上成美」「志賀直哉」「山本五十六」など。
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