21世紀活字文化プロジェクト

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活字文化公開講座

2004/11/25

伊集院静さんが講演〜立教大で活字文化公開講座

■出演
伊集院静さん(作家)
千石英世さん(立教大学文学部教授)

 活字の重要性を認識してもらおうと、豊島区の立教大タッカーホールで16日開かれた活字文化公開講座では、読書や活字の魅力を伝える講演に、参加者たちが熱心に耳を傾けた。

 基調講演を行った作家の伊集院静さんは、人類の長い歴史の中で文学が受け継がれてきた理由について、「喜びや悲しみなど自然にこみ上げる感情を表現する手段として、必要だったということ。内臓がなければ生きていけないように、文学もなくてはならないものだ」と語った。また、「読者が共感できる1行を書けたら、小説家はそれでいい」と強調した。

 一方、「活字と鯨」と題して講演した立教大文学部教授の千石英世さんは、アメリカの作家メルヴィルの小説「白鯨」のストーリーに触れながら、「最初に読んだ時に気付かなかったことに、2度目で気付くこともある。本は繰り返し読むことが必要だ」と語った。

 講座に参加した練馬区の岡田邦子さん(73)は「二人の話を聞いて、読書の楽しさを改めて認識することができて良かった」と話していた。

基調講演

野球の縁で立教大学に入学

20041125_01.jpg 私、この立教大学を出たんです。山口県の進学校の防府高校で3年間、野球を一生懸命にやっていて、甲子園へあと一歩というところで負けてしまいました。立教の野球部へ入ると決めたのは冬だった。セレクションを経て「文学部に行ってくれないか」と言われ、日本文学科に入ったんです。

 本を読むのが非常に好きで、文学全集や日本詩歌全集を大学の野球部の寮に持っていったら、「珍しい選手が入って来た」と、上級生が入れ代わり立ち代わり見に来たことが印象的でしたね。

小説はなぜ必要なのか

 それでは、本論に入ります。小説というものが、なぜ必要なのか。神話は人間が考えなきゃできないから、それ以前であれば、各宗教の教典でもいいんです。ギリシャ神話にすると、何千年もの間、私たち人間がずっと捨てないできたものが幾つかあるんですね。

 もし小説、物語というものが生きるということに、さして必要なかったら、文明が消えたように多分消えていただろう。人間の中に、文学を置ける場所があるんでしょうね。肝臓があって、膵臓(すいぞう)があってというのと、多分同じような位置づけで、どれかなくなってしまうと、内臓は生きていけない。つまり、小説はそれがなかったら生きていけないという部分に近い存在だろうと思います。音楽もそうですね。絵画もそう、彫刻もそう、戯曲もそう。

 それじゃあ、なぜ絵画が、音楽が生まれたのか。スペインのアルタミラの洞窟に、牛のようなものが描かれているんです。猟で何頭か捕獲したことで、しばらく食べていける。凶暴なものに打ち勝って仕とめた時に、笑ったり跳びはねたりするんですが、人間の欲求として、まず彼らは、最初にそれを描いておきたかった。

 あと、体で表現したものが何かというと、ドンドンと鳴るように打ち出したものが音楽になり、体を動かすことが舞踏、舞踊につながった。それと同様に、猟の話や、どんな猟だったかを話して聞かせる語り部が現れる大前提の1つが喜びで、その喜びというか、感動したものに対する周辺から、最初に語られるものが出た。

 一方、人間は必ず亡くなる。こんなにいい人が猟で死んだり、寿命がきて死んだりした時に、あの人のことを覚えておきたい、伝えていこうと。多分、喜びと同時期に、悲しみというものを語ったり、物語をつくったりしたんだと思います。ここが、小説、詩歌、そういうものの非常に大事なところで、ただ、喜びとか、豊かになるものだけをとらえていたら、多分、ここまで残っていないんですね。やっぱり片一方で、哀切とか寂寥とか、そういう悲しみというものを抱えているものを、物語の中に内包させているということが、実はすごく大事なことなんですね。

 私は、まだ新人のつもりでいるんですが、立場上いろんな人の作品を読んでいます。開高健という人が、非常にいいことを言っているんですね。新しい人の小説は欠点も多いけれど、「この1行だ」というものを見つけた時や、選者自身の「心に共振できるもの」があったら、そこは押しまくって大丈夫だと。なぜ1行かというと、分かりにくいものは人の気持ちを掴まないんです。真実から遠ざかるというのかな。これかもしれないと思う、そんな1行は、正しく見つけるという問題じゃないんですね、小説は。小説というものは、作家の手から離れた瞬間に、読み手の方がどういうとらえ方をしても自由で、面白かった面白くなかったということじゃなくて、胸がどこかもぎとられるということでしょう。

 読者のとらえる視点が違って見えるほうが、豊かな小説だと思います。それを見つけるために読書するわけではなくて、そういうものが小説の中には幾つもあって、多分そういう1行というのは、気がつかないうちに、さっき言いました内臓と同じような小説を置く場所に、ちゃんと積み重ねられているんです。

 この小説は読後感がいいとかよくいうんですが、実はこれは読書の一部であって、読み終えたから余計印象が強いだけなんです。普通は過程、途中にあるところで、何だかわからないまま、これはわかるとか、こういうことなんだ、これはいいなとか、そう考える時に、実はそこが一番文学が置かれる場所がやわらかい状態であって、何でも受け入れられる状態にあるのです。読書というのは、読み終えることももちろん大切だけれども、読書の過程でわかるものが、実は非常に大事なことであって、野菜を食べたりお肉をかむような、そういう大切な時間なんです。

人間ができている松井選手

 ちょっと話題を変えて大リーグの話をしましょう。松井君は、非常にいい選手です。松井の何が一番いいかというと、5、6年前に、新潮社で松井と対談しました。「日本全国どなたでも、会いたい人に会わせますから、一番会いたい人を教えてください」と担当者が松井選手に話したところ、「伊集院静さん」と答えた。さらに私の作品を全部読んでいるというので、担当者もびっくりしたらしいですよ。

 対談の際、「君は、中学時代から、一度も人の悪口を言ったことがないというのは本当かね」と聞いたら、中学生の時に、食事中に友達の悪口を言ったら、父親から「だれの前でも、二度と人の悪口を言わないと約束しろ」とどなられ、約束したそうです。それから一度も言ったことがない。僕が「ベテランの悪口を言いたいと思ったことがないのか(笑)」と言ったら、「山ほどあります」って。本当にいい子だなと思いました。

魯迅が言う小説の目

 また小説の話に戻しましょう。小説には「目」というのがあると、魯迅が面白い話をしています。例え話で、雪の降る山中、殺人を犯した犯罪者が逃げてくる。山を登り切れれば、追手から逃れられる。壮健な体をしていて年が30半ば。ぱっと見ると小屋の明かりが見え、あそこへ入り、人がいたら殺してしまえと。暖をとり食料を少しもらって、山道を越えよう。犯罪者が窓から中の様子を見ると、夕食が始まるところで、父親と母親と、とってもかわいい坊や。

 入ろうとして父親を見た時、犯罪者は、待てよ、俺と同じぐらいの年じゃないか。自分の人生が、どこでどう間違ったかは分からないが、きちんとした生き方ができていれば、あそこに座っていたのは自分かもしれないと思うんですね。まだ先に小屋があると知っているので、男はその小屋に侵入しないで登って行くんです。翌朝、その小屋の近くで、その男は凍え死んでいた。それを見つけた追手たちは、その体に石を投げたり棒で突っついたりした。

 その極悪人が、ここでなくてもいいかと思った瞬間、そこに小説の目というのがある。つまり、そういうものを書けていければ、小説というのは何か訴えることができるかもしれない。これは私が非常に好きな話なんです。私の作品にはそういうものがありませんが、そういうものを書こうとして、小説家たちは毎日作業をしているんだと思います。

 何か救われたいと思って小説を読む人もいるでしょうが、本を読むという行為は、生きるために野菜を食べたり、お肉をかんだりすることに近いものなので、ぜひ、本を読むようにしてください。

(2004/11/25)

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